ちょっと不思議に思ったので、ウィキペディアを調べながら書いてみる。

 

私は椎名町で生まれて、大泉で育った。

つまり、西武池袋線沿線には事の他、思い入れがある。

 

今回は狭山と入間について、不思議な現象が起こっていることを知った。

 

事の起こりは、元狭山村という村の存在である。

 

そう言えば、狭山ヶ丘駅は、元狭山駅という名称だったな。

 

あれ?

なんだこの違和感は。

 

まず、思ったのが、元狭山村って大きい村だと思い込んでしまったこと。

狭山ヶ丘駅が元狭山駅だったこと。

数カ月後、元狭山駅から三ヶ島村駅に改称したこと。

 

元狭山村から三ヶ島村が独立した?

なんてことはなくて、そもそも別の村なんだ!

 

1889年(明治22年)4月1日 町村制の施行により、二本木村、高根村、駒形富士山村及び富士山栗原新田の区域をもって、入間郡元狭山村が発足する。
1915年(大正4年)4月15日 - 現・西武鉄道の前身となる武蔵野鉄道が営業を開始すると同時に元狭山駅(もとさやまえき)として開業。
同年9月1日 - 三ヶ島村駅(みかじまむらえき)に改称。
1954年(昭和29年)9月、村議会が東京都西多摩郡瑞穂町への編入を全会一致で可決。その後、埼玉県は「元狭山村問題対策協議会」を設置して埼玉県入間郡武蔵町との合併を要求。

1958年(昭和33年)10月14日 元狭山村の所沢青梅線以北の地区(二本木の区域の一部。元狭山村の区域の1/3)が武蔵町に編入する。
同年10月15日 元狭山村の区域の残りの2/3が瑞穂町に編入する。
 

ウィキペディアの狭山ヶ丘駅、元狭山村、から抜粋。

 

元狭山村は、現在の東京都瑞穂町と埼玉県入間市に分裂したってことになる。

 

狭山ヶ丘駅は所沢市であり、元狭山駅ではあったが、その数カ月後には三ヶ島村駅に改称しているが、なんで元狭山なんて駅名にしたのだろうか。

 

元狭山村に駅が出来たってことならば、元狭山村駅で良かったわけで、三ヶ島村駅へ改称していることからも、元狭山村と三ヶ島村は隣接していたとしても、知名度は元狭山だったから、元狭山駅にしたのだろうか。

 

そもそも、元狭山の元ってなんだ?

 

狭山ってのは、読んで字のごとく、手偏と獣偏の違いはあれど、山に挟まれたってことだと漢字から容易に推測出来るが、狭山丘陵というエリアが関係しているのだろう。

 

元狭山村があるってことは、対立構造として、狭山村もあったのではなかろうか。

 

1875年(明治8年) - 後ヶ谷村と宅部村の合併により狭山村が成立。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行に伴い、神奈川県北多摩郡清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村が町村組合を結成し、高木村外五ヶ村組合が発足。
1893年(明治26年)4月1日 - 東京府へ移管。
1919年(大正8年)11月1日 - 高木村外五ヶ村組合を廃止。各村が合併して大和村を新設。同日狭山村が廃止された。
1954年5月3日 - 大和村が町制施行により大和町となる。
1970年10月1日 - 大和町が市制施行。即日改称し東大和市となる。
1987年(昭和62年)10月1日の市制施行は、大阪府下では1971年11月3日の交野市以来16年ぶりであった。市制施行にあたり、埼玉県に既に「狭山市」があったため「狭山市」を名乗ることは事実上不可能であったことから、事前に町民への新市名アンケートを行った。回答数(1374件)のうち最も多かったのは「河内狭山市」(329件)で、「さやま市」が二番目(121件)、「大阪狭山市」は三番目(117件)であった[1]が、実際にはこの結果を無視して行政主導で「大阪狭山市」に決定した。
 

こちらは、狭山村、東大和市、大阪狭山市のページから抜粋。

 

やはり、元狭山村よりも狭山村という村が先にあった。

 

あっちは狭山を名乗りやがったので、こっちが元狭山だと言わんばかりである。

 

武蔵野鉄道(現・西武池袋線)も、元狭山駅ってしちゃったけれども、これに巻き込まれてはダメだと考えたのか三ヶ島村の駅だから三ヶ島村駅に改称したのだろうか。

 

 

入間と狭山、どっちも由緒正しき地名なのだと思うのだが、狭山にはお茶という名産品があり、入間市の名産品として狭山茶がある。

 

東村山 庭先ゃ多摩湖

狭山 茶処 情は厚い

東村山四丁目

 

志村けんが、東村山と狭山茶を一気に全国区に押し上げてしまう。

 

 

埼玉県は狭山茶を売りにしたかったんだろう。

 

最大の産地が入間市だとしても、入間茶ではダメなんだ。

 

知名度として狭山の名前を使いたい。

 

 

狭山と入間は根深い。

 

狭山市立入間小学校、入間市立狭山小学校、なんてねじれ現象がおこってしまっている。

 

狭山市には入間地区、入間市には狭山地区なんてものがあった。

 

このねじれを解消するべく、合併すればいいじゃんと、思うだろう。

 

狭山市・入間市合併協議会を設置し、狭山市との合併を検討していた。合併期日は2006年1月1日とし、合併方式は新設(対等)合併、新市名は「狭山市」、新市庁舎は現狭山市役所とすることとした。しかし、2005年1月30日に集計された市民へのアンケートで合併反対が多数となり、住民投票でも合併反対が多数となったため、合併協議会は同年2月3日に解散した。
 

うまくいかないものである。

 

狭山ヶ丘駅という名称も、狭山市の狭山ヶ丘と、狭山丘陵を連想させる地名からだろう。

 

当時の思惑は、推測することしか出来ないが、それぞれどんな思いがあったのだろうか。

 

 

ではでは