この本を読んだので紹介してみたいと思います。

 

まず、この本の内容に対してタイトルが少し合っていないと思います。

 

↑この本のあとがきですが、ここに書かれている通り内容は主に「江戸時代の帯刀を主題としたもの」です。

 

 

 

帯刀の起源は信長・秀吉時代から。それ以前は太刀と腰刀。これは江戸時代から認識されていました。

 

 

 

 

 

戦国時代に来日したルイス・フロイスとフランシスコ・ザビエル。日本では庶民・農民も大刀と脇差を帯びていると記している。

 

ただし、これは戦国時代に生まれた風俗であり、それ以前の庶民は刃物を腰に帯びてはいない。

 

 

 

きっぱ(切刃)とは刃を下向きにして腰に刀を差す事。17世紀初頭の絵をみると身分の低そうな武士がよく刃を下にして刀を差している絵をみかけます。特に甲冑を着る時の差し方とのこと。身分の高い武士は腰当という道具を使用して刀を太刀佩きしたが、低い身分のものは「きっぱ」に刀を差した。刃を下にして差していた方が刀を抜きやすかったのでしょう。雑兵物語に、そのように差さないと刀が抜けないと書かれています。

 

なお、名古屋の徳川美術館で平服や上半身裸で「きっぱ」に刀を差した武士の絵を多くみました。当時(17世紀初頭)においては珍しくない刀の差し方だったようです↓

 

 

 

 

その後も刀を抜く時の前動作として刀を回して「きっぱ」にする所作が残ったと書かれています。「刀のそりをまわす」とも言う。
 
 
 

17世紀半ば頃から反りのある太刀や刀は「鍋弦のような刀」といわれ時代遅れのおかしいものとみなされるようになった。上級武士から中間などまで、長くて真っすぐな「棒のような刀」が流行した。

 

従来の刀の反りを伸ばして改造して真っすぐにする事が流行した。1640~1650年頃からの流行。

 

なお、刀の鎬地の棟側をハンマーで叩くと反りが伏せられます。ただし、刀のコシが弱って曲がりやすくなる。

 

 

 

 

 

 

赤穂浪士の一人片岡源五右衛門の言葉。

 

「若い頃は反りのない大小が流行って自分達もわざわざ反りを伸べさせたりした。ただ今は元のように反りのある大小に戻した」

 

棒の様な刀の流行が元禄末頃(1700年頃)には終息した事がわかる。

 

 

 

1640~1700年頃の「棒の様な刀の流行」は刀・脇差のファッション化を確定させた。

※刀の反りを伏せるとコシが抜けて曲がりやすくなるうえに、反りのない長刀は抜きにくい。

 

 

老人の回顧:昔(17世紀後半頃)は三尺の刀・二尺四五寸の刀・二尺の刀など持ち主に合わせて色々であったが今では皆が二尺二三寸で拵も似たものばかりになった。

 

2尺3寸程度が刀の定寸とされているが、この根拠となる法令が見当たりません。この老人の話からは定寸の刀を皆が持つようになったのが法令などによるものではないように読み取れます。

 

 

 

天和3年=1683年に出た法令により武士身分以外の帯刀(二本差し)が本格的に禁止された。それ以前は農民・町人の二本差しも特に禁止されず。冠婚葬祭などでは庶民の二本差しも珍しくなかった。戦国時代以来の風習として。

 

この法令以降、我々が一般的にイメージする江戸時代、つまり「武士=二本差し」「庶民は脇差のみ差して良い」になった。この法令は幕府支配地域のみならず諸大名の領地を含む全国的なもの。

 

帯刀とは二本差しの事をいうのであり、「刀」に脇差は含まれないこれがこれ以降、江戸時代の日本人全体の一般常識となる。

 

この法令以降、帯刀は身分標識となる。

 

 

帯刀が身分標識であるため、武士が帯刀せずに出歩く事は身分詐称行為とみなされるようになったという。武士が刀を帯刀せずに出歩く事は処罰の対象となり、実際に処罰された判例が多く残っているという。

 

 

 

 

帯刀が身分標識となると庶民がこれに憧れるようになった。藩や幕府への貢献や献金などにより褒美として「苗字帯刀」の地位が与えられるようになった。その結果、江戸時代後期には諸国で苗字帯刀の者が沢山になり政治の妨げになったという。つまり、「二本差し」という見た目で武士である事がすぐにわかるようにするための制度であったのに、庶民帯刀者が増えてしまいその機能を失ってしまった。

 

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「棒の様な刀」がファッションとして流行した1640年頃から刀は「武器・凶器」という認識が薄くなり、1683年の法令以降は刀は身分標識としてしか見られなくなった。そんな時代が200年も続いた。しかし1853年のペリー来航により幕末と呼ばれる時代に入ると状況が一変する。

 

 

 

幕末になると刀が実際に使われるようになり治安が悪くなる。辻斬・物取が多かったという。平和な時代には庶民にとって「帯刀」はあこがれの存在であり報償でもあったが、刀が使われる時代になると人々の目が変わり始める。これが明治の廃刀令にもつながる。

 

 

 

 

明治時代に入ってからも官員(士族)が勝手に帯刀をやめて丸腰になる事は許されなかった。まだ江戸時代の延長なので帯刀せずに出歩けば処罰の対象になるという認識だった。

 

 

しかし、明治に入ると官員が「脱刀」の許可を得ようとする事態が頻発するようになる。建て前としては制服たる洋服に帯刀して動くことが不便であるとの理由から。個別に許可を得る必要があるために「それらしい理由」で脱刀を願い出ています。身体軽弁のためとか、刀を差していると消防ポンプの持ち運びに不便とか、仕事場や出張先での都合とか。

 

しかし、根底にある思いは別だったようです。

 

 

 

↑この本の表紙にもなっているイラスト。馬に乗るシルクハットの人物の顔には「文明」と、刀にちょんまげの武士の顔には「旧弊」と書かれている。これがこの時代の空気だったようです。つまりチョンマゲ姿と同じくらい「帯刀」をしている姿がダサくて恥ずかしい。そういう時代の空気があったようです。

 

 

 

そんな時代の空気もあって明治4年に脱刀自由令が出て個別に許可をとらなくても帯刀をやめられるようになる。散髪つまりチョンマゲも一緒にやめられるようになった。新時代の支配階級は自ら帯刀をやめて洋服を着るようになる。

 

しかし、この2年前に森有礼が廃刀を建議した時には全会一致で否決されているのです↓

 

 

 

 

↑脱刀令が出た明治4年の新聞にもその事が書かれています。わずか2年前に森有礼が廃刀を建議した時とくらべて「気運の変移は人智の想像し得べきところにあらず」と書いています。それくらいにこの時代の空気の移り変わりが急速だったということでしょう。ただしこれは東京での傾向であり地域差も大きかったという。

 

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明治9年に廃刀令がでます。これに違反して帯刀をしたものは刀を没収される事となりました。百姓・町人の脇差も例外ではありません。

 

 

 

現代人からすれば当たり前なのですが、脇差も刀として扱われこれを身に着ける事は禁止されました。しかし、これは当時の日本人にとっての常識ではなかったようで広く誤解が生じていたようです。

 

江戸時代以来、「帯刀」という言葉は大小二本差しの事を意味していたからです。江戸時代から庶民は刀を差してはいけない。しかし脇差は刀ではないから庶民も差して良い。これが当時の一般認識だったのです。

 

 

江戸時代の「庶民の帯刀禁止」が身分標識としての禁令であったのに対して、明治時代の帯刀禁止は「凶器としての刃物の持ち歩きの禁止」だった。幕末~明治初期の政情不安・治安への不安も根底にあっての法令だったのだと思います。しかし、この違いを誤解している庶民が多かったのです。

 

 

 

 

 

冠婚葬祭・新年のあいさつ回り・旅行や遠出など、これらの際に脇差を身に着ける事はすでに200年以上続く風習でした。ここではネクタイのようなものと書かれています。まさかそれが禁止されたとは知らずに脇差を没収される庶民が続出します。

 

短刀を身に着けていた女性は短刀を没収される。大阪駅では諸国から出てきた人の道中脇差が毎日束になるほど没収されたと書かれています。

 

 

帯刀を厳しく禁止しながら古道具屋でたくさん刀を売っているのはおかしいじゃないかという庶民の投書が書かれています。新聞でも刀剣売買の禁止を求める記事が書かれている。

 

そんな御時世なので刀は売っても二束三文にしかならなかった。別の本には、「まず金銀・彫刻が含まれる拵の金具が取り外されて売れて行き、処分しようのない刀身だけが古道具屋に積まれている」と書かれていました。

 

1876年の廃刀令後の話です。

 

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この後、昭和初期・1930年代に入ると国粋主義と復古の時代の空気から軍刀需要でまた急速に日本刀需要が拡大して日本刀不足に陥ります。そして価格も跳ね上がる。時代の空気といってしまえばそれまでですが、日本人の浅薄な部分を感じないでもありません。

 

この本は読み物として面白いものではありませんが、帯刀という部分に興味のある人にとっては興味深い内容が含まれていると思います。

 

著者もちゃんとした研究者なので内容についても信頼できるものだと思います。

 

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