今回東京の刀剣博物館で古い名刀を見て感じた事があります。
 
「現代刀は古刀に及ばない」
 
刀剣鑑賞の愛好家からよく聞く言葉。
 
なぜこう言われるのか?
 
毎度間違いと偏見しか書いていませんが、今回は古刀の見所というものについて考えを書いてみたいと思います。
 
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4月に刀座で古い刀を大量に見た時に自分も感じた事なのですが、古刀と現代刀では質感が違う。古刀の潤うような鉄の質感。これと同じような質感の現代刀というのは私は見た事がありません。こういうものが日本刀だという観念がある人には現代刀などは日本刀の偽物にしか見えないのかもしれない。
 
今回、刀剣博物館で古刀の名刀を見てまた一つ感じた事があります。
 
「古刀には見所が多く、現代刀には少ない」
 
これも刀剣鑑賞の愛好家から聞いたような言葉なのですが、これの意味がわかった気がしました。
 
古刀は「見所=情報量」が多い。
 
写真・動画とも綺麗に撮れなかったのですが、特に博物館のこの刀を見てそう思いました↓
 

 

 

 

 

 

 

一振りの刀の中に「情報量」がたくさんある。

乱れ映りで地の部分に複雑な変化がある。

地鉄の肌も同様に複雑さがある。

刃文にも同様の複雑さがある。

刃中にも地にも働き?と呼ばれるようなものがたくさんある。

それらが一つの刀身の中にあって刀身全体の複雑さを構成している。

 

不勉強なので正確な言葉ではないかもしれませんが、こういった情報量の事を見所と呼ぶのではないでしょうか。

 

これと正反対の刀が見所のないつまらない刀という事になるでしょうか。

 

地鉄に変化なく、刃文に変化なく、刃中にも地鉄にも何の働きもない単調で平板な刀。

 

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現代の名工作の刀はどうか?

 

刃文は決して劣っていないのではないでしょうか? 多く名作を知りませんが、博物館などで丁子乱れの刃文などをみるとその精緻さは古刀の名作に比べて劣るものではないと思うのです。むしろ現代刀の方が上なのではないかとも思います。

 

地鉄の複雑さや潤い。これに関しては現代刀は圧倒的に劣るように見えます。変化に乏しく平べったい感じがします。肌は細かくて精緻ではあるものの、単調で「働き」と呼ばれるものも無いか少ない。ゆえに古刀のそれに劣る。

 

観賞物・芸術品として見た場合、刃文以外は全て古刀の方が勝るように思います。

 
「現代刀は古刀に及ばない」
 
刀剣鑑賞の愛好家にこう言われる理由はこの辺りにあるのではないでしょうか。
 
もちろん、繰り返しますが私の無知ゆえの偏見です。
 
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さらに妄想で書いていきたいと思います。
 
古刀の「見所=情報量」
 
これは何に起因するものなのか?
 
おそらく材料の鉄の汚さに由来するものなのでしょう。よく言われる所です。
 
これら古刀の見所は作者が意図して作った見所なのか?
 
私は違うと思います。
 
きっと中世の刀匠は現代の無鑑査刀匠が作るような綺麗な地鉄に精緻な刃文の刀を作りたかったのではないでしょうか?
 
先日名古屋で見た古刀にはまるで現代刀のような綺麗な地鉄の刀がありました。上質な材料を選りすぐった一振りだったのだと思います。
 
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では、現代刀匠も古刀期のような汚い鉄で刀を作れば古刀っぽい刀になるので良いのでしょうか?
 
実際に自家製鉄をしている刀匠の考えでいうとそうなのかもしれませんし、日刀保の玉鋼を使用している刀匠でも地鉄の変化を出すために卸鉄の工夫などをされているのだと思います。
 
しかし、古刀と同じような質感にはならない。
 
私には理由はわかりません。古刀期の鉄はもっともっと未熟で汚かったからなのでしょうか?
 
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昨日佐野美術館で見たものがあります。一つの刀身なのですが部位ごとに研磨方法をわけて展示されていました。「差し込み拭いのみ」の部分と「金肌拭い+刃取」の部分で大きく違いました。「差し込み拭い」のみの部分は刀身の肌の荒れやキズの汚さが目立つのに「金肌拭い+刃取」つまり現代美術研磨の部分ではほとんどそれが目立たない。
 
きっと日本刀の見所というのは汚さと紙一重なのだと思いました。
 
日本刀の美しさは「刀剣専門の研磨=美術研磨」がなければ全く存在しないのと同じです。
 
古刀よりも現代刀が好きという愛刀家は少数派ではありますが一定の割合で存在します。「情報量=見所=汚さ」だと思うと理解できます。傲慢な鑑賞愛好家の中には「刀が見えるようになると古刀の良さがわかるようになる。素人は綺麗な現代刀を好むんだよ」というような事を言う人がいるのですが、これは半分正解で半分間違いなのだと思います。
 
古刀の見所は見方を知らないと見えない・気づかない。ただの汚さにも見える。現代刀は「見所=汚さ」が少ないから綺麗です。だから古刀の見方を知らないと素直に現代刀の方が良いと思う。
 
そこから進んで古刀の見方・見所を知った時に「古刀の方が見所が多くて奥深くて良い」と思うかどうかはまた別の話でしょう。一定の割合で「やはり現代刀の方が綺麗なので古刀より好き」という層が確実に存在する。見識の問題ではなくて好みの問題になってしまうからです。古刀の見所は汚さと表裏一体のものでしょう。
 
でも、これ言い難いんだと思います。特に古い世代ほど。「古刀より現代刀の方が好き」なんて言うと、刀を見る目がないように思われるから嫌なのでしょう。
 
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「情報量=見所=汚さ」なのであれば、地鉄の肌などない洋鉄スノベに直刃の刃文の刀は一番綺麗な刀という事になります。しかし見所もない。汚さを排して見所ある刀を作る。これが現代刀匠の一つの方向性だったのではないかと私は考えます。
 
・汚さのない(見所のない)精緻な肌の地鉄
・「情報量=見所」の多い複雑な刃文
 
↑方向として、現代刀匠が一流の刀を作ろうと考えるとこういう方向が一つの正解になるのではないでしょうか?
 
実物を見た事がありませんが、吉原義人刀匠の刀というのはこういう感じに見えます。私には。
 
吉原義人刀匠は「現代刀は古刀を超えている。材料の鉄が良いからだ。昔は技術も未熟だった。」というような事を言っていたと記憶しています。しかし多くの刀剣鑑賞の愛好家はそれを否定します。日本刀の良さが「見所の多さ」なのであれば現代刀が古刀に勝るわけがないので愛好家の方が正しいでしょう。
 
しかし、汚さを排して見所だけを付加した刀が最良のものであり、中世の名工が目指したけれど到達し得なかったのはそういう刀なのだと考えればどうか? 吉原義人刀匠の刀は古刀を超えている言っても間違いではないと私は思います。
 
現代刀匠の筆頭たる吉原義人刀匠が古刀の魅力を知らないはずなどありません。自作の出来にうぬぼれて目が曇っているはずもありません。刀剣鑑賞愛好家の多数派との「思想の違い・志向の違い・理解の違い」なのだと思います。
 
また刀剣鑑賞の愛好家は骨董品が好きな人が多く、理屈抜きに新品よりも古いものを好む人が多いようです。そういう部分も影響しているのではないかと考えます。吉原義人刀匠もその点を嘆いていたと記憶しています。歴史的価値と工芸品としての出来を混同するのは好みの問題ではなく明確な誤りです。
 
吉原義人の刀↓
 
古刀も現代刀も一流から三流までありますし作風も大きく異なります。その好き嫌いはあくまでも好みのものであると私は思います。見所が多いから古刀の方が優れているとは言い難いけれど、現代刀には見所が少ない事も間違いない。
 
古刀の再現に取り組む現代刀匠もいるし、現代刀は古刀を超えたと言う現代刀匠もいる。それも思想や方向性の違いなので各人各様で良いとしか言えないと思います。正解とか不正解があるものとも思えません。
 
 
個人的な考えでいうと、古刀も現代刀も鑑賞対象としては同じくらい好きです。
 
斬れ味とか強度は個体差が大きいので比較が難しいですが、全体として見れば材料や作り方よりも経年劣化の影響の方が大きいので新しい物の方が強いでしょう。刀の経年劣化は主に金属疲労と研ぎ減りです。
 
 
新刀や新々刀についてはまたそのうち考えてみたいと思います。
 
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古刀を好み現代刀を蔑むような人の中には「現代刀なんて作る意味がない」なんて言う人までいて驚きます。そういう人達は「愛刀家」ではなくて「刀剣鑑賞の愛好家」とか「骨董品コレクター」なのだと思っています。
 
 
かつて日本人にとって日本刀は仏像に似た存在だと捉えられていたようです。
 
日本刀の寸法を法量といいますが、法量というのは元は仏像の寸法のことを指す言葉です。昔の日本人の刀への思いが伝わります。古くから御神体としても祭られ、新しくは「武士の魂」ともいわれた存在です。
 
現代でも「法量」という言葉を検索すれば「仏像の寸法」だと説明されています。そちらの説明しか書かれていない事の方が多いです。
 
法=仏法
 
仏像が作り続けられる事と仏の教えが教え継がれる事は同義であると思います。仏の教えが絶えれば新たに仏像がつくられる事はなくなるでしょう。日本刀も同じで、日本刀の精神性が忘れ去られれば未来に日本刀が作られる事はなくなるでしょう。そう思えば日本刀についての知識は鑑賞・鑑定に関する事以外にも、世に伝えられなければならない事は多いはずです。
 
 
奈良時代の仏像
鎌倉時代の仏像
令和時代の仏像
 
歴史的価値や美術的価値はそれぞれに違うでしょうけど、仏像としての尊さに上下があろうはずもありません。
 
 
鎌倉時代の日本刀(古刀)
江戸時代の日本刀(新刀)
令和時代の日本刀(現代刀)
 
歴史的価値や美術的価値はそれぞれに違うでしょうけど、日本刀としての尊さに上下があろうはずもありません。
 
「現代刀なんて価値がない」なんて言うのは「新しい仏像なんて価値が無い」と言うのと同じだと思います。そういう人達は仏を敬う気持ちも持たずにコレクションする為に歴史的価値のある古い仏像を買ったりするのでしょうか。
 
私の感覚ではそういう人はなんだかとても気持ちが悪いのです。
 
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繰り返しますが、ここで書いているのは私の乏しい知識や鑑賞眼による妄想です。
 
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