↑先日アクセス数が多かったこの記事の内容の別の部分について、目にとまった部分について書いてみたいと思います。
この部分について↓
↑環首刀=素環頭大刀(日本名?)
この刀について検索してみても中国語のサイトしか出てきません。
まず中国語のwikipediaから
google翻訳の訳文↓
環首刀は、環柄刀[1]とも呼ばれ、片手または両手持ちを主とする短兵器です。特徴は片面開鋒、厚脊薄刃、直脊直刃、刀柄首が円環状です。2]
歴史の沿革
環首刀は先秦から始まり、両漢[3]に形成され、その後徐々に剣に取って代わって軍隊の基本制式装備となり、環首刀の大量使用は、騎兵がすぐに斬るのに適した兵器が必要で、西漢の初年に北方匈奴の脅威で大量の騎兵が発展し、騎兵は馬の背で斬りで遠くまで刺すのが簡単です。そして刺撃は兵器が目標に刺さって抜くことができない状況が発生する可能性があります。また、刀は背筋が厚く、重量が重く、斬る時に発生する殺傷力と折れる確率は剣より優れています。次に、刀は剣より製造しやすく、片面開刃の工事は両面開刃より簡単で時間を節約し、量産に適し、軍隊のために大量に装備する[1]。漢書』には李陵佩環首刀の記録がある[4][5]。
環首刀は東漢後期に剣に完全に取って代わって、軍隊で最も重要な短柄武器となった[5]。南北朝時代の環首刀と長盾は一般歩兵の標準装備で、この時期の刀の環飾には多くのこだわりがあり、北周宮廷衛士が使用した刀は竜環、鳳環など多くの名目[6][7]。
・・・・・
ざっくりとですが意味はわかりますね。
環首刀は片手または両手使用の刀である。
漢の時代に普及して剣にとって替わり軍の基本装備になった。
この刀は剣よりも製造しやすい。
片刃の工作は両刃の工作よりも簡単で早く作れる。そのため量産に適していたため軍隊に大量装備された。
環首刀は後漢後期に剣に完全に取って代わった。南北朝時代は環首刀と長盾が歩兵の一般的な標準装備だった。
・・・・・
↑剣と刀の断面図。例えばこの図の例だと刀の方が断面積が1.5倍になります。同様に刀身の体積も増えるので重たくて丈夫になる。そのため斬撃に向いています。厳密には環首刀は図のような切刃造りのものは少ないと思いますが。
また、環首刀には鍔がないので斬撃主体に考えて作られている事もわかります。
漢の時代、剣は青銅製なのに対して環首刀は鉄製です。この理由として、当時の中国の鉄はまだ粘りが少なく折れやすかったのかもしれません。鉄を多く使う刀であれば体積が多いので折れにくいので鉄で製造できたのかもしれません。同時代の日本、つまり弥生時代の日本でも銅剣は出土しても銅刀は出土せず、鉄刀は出土しても鉄剣は出土しない事も同じ理由のように思います。
・・・・・
wikipediaは素人が書いて編集しているものなので専門的な事になるほど信用できません。この件についての書籍を調べてみました。残念ながら日本語のものはほとんどみつけられませんでした。
↑一冊それらしい記述のある本をみつけたのですが、著者略歴を見ると歴史研究で学位や博士号をとっている人ではないので研究的な内容としては信用してはいけないタイプの書籍でした。いわゆる素人研究家です。
↑この本の編著者の伯仲という中国人がどういう人なのかプロフィールがなくてわからないのですが、出版社の信用的には先ほどの書籍よりも内容を信じられそうに思います。
ついでに同時代の剣(銅剣)について
秦・漢の時代に剣は歩兵・騎兵にとって重要な武器となった事。三国時代以降には実戦では使われなくなった事。いずれもwikipediaの環首刀の記述と整合性がとれますね。この時期に剣から環首刀に置き換わった。
・・・・・
環首刀(素環頭大刀)は後漢時代=弥生時代中頃に日本に伝来した。
弥生時代は大陸からの輸入、古墳時代以降に国産化がはじまる。
そして、なぜかすぐに(弥生時代のうちに)環頭部分を切り落とした刀身(直刀)がみつかるようになった。大陸から輸入した環首刀の環をわざわざ切断したらしい。
以下抜粋
直刀の成立過程は諸説あるが、弥生時代の直刀は大陸から持ち込まれた素環頭大刀の環頭部を裁断し、直刀へ改変したという見解が定説となっている。実際、鳥取県青谷上寺地遺跡、福井県乃木山墳丘墓などで裁断された環頭部のみが出土し、先の見解を補強している(図16)
環頭部分を切断して木製の柄を取り付けるようになった。
ただし、素環頭大刀も並行して古墳時代を通じて作り続けられる。
【横刀】
— 中国武具刀剣bot (@Chinaswordbot) December 24, 2022
唐代に佩刀として用いられた刀の分類
漢代以来の環首刀から発展した直刀の様式で、長さは多くの場合60〜80cm
一般に「唐刀」と呼ばれ、日本に「上古刀」として伝来した刀は基本的にこの横刀に属する pic.twitter.com/ShwnComqYu
厳密には方頭大刀と唐大刀は同じではないというか、方頭大刀は唐大刀に含まれると言うべきでしょうか。中~下位の位の武官の唐大刀が方頭大刀。柄頭が方形なので。
↑高位の人の唐大刀は柄頭の形が方形ではないので「方頭大刀」とは言わないような気がします。
このようなタイプの唐大刀は公家の儀仗刀としてほぼそのままの形状で幕末まで使用され続けます。
・・・・・
ところで、この方頭大刀。本来の木製柄の大刀とは別に、唐には存在しないと思われる全鉄性の方頭大刀が存在するのです(共鉄柄の方頭大刀)
兵杖刀は全鉄性の刀でないと使いにくかったからでしょうか。木製柄の刀は柄が壊れやすいので実用に不向きな部分があるのです。これは日本刀の実用上の欠点として残り続けます。昭和期に至っても軍刀故障の過半数は柄の故障である事を成瀬関次が記録しています。
↓方頭大刀:木製柄の刀=唐の様式(上古刀)
↓方頭大刀:全体が鉄製(共鉄柄)
旧来は蕨手刀がら変遷して日本刀になったと考えれれていました。しかし近年ではこの方頭大刀に反りがついて、全鉄性のものが毛抜型太刀に、木製柄のほうが日本刀になったのではないかと考えられています。
私の中ではこんなイメージです↓
面白いのは兵仗刀として存在してきたはずの共鉄柄刀が最終的には完全に儀仗化した毛抜型太刀になってしまい、その後この系統の刀剣(共鉄柄刀)が日本から消滅してしまう事です。そして儀仗刀として存在してきたはずの木柄刀が兵仗刀になっていくという不思議。
初期の日本刀の形状が完全に儀仗化した毛抜形太刀とほぼ同じ形状である事は、日本刀が儀仗刀としてスタートした事を現しているのではないでしょうか。例えば蕨手刀を思わせるような鍔元の極端な反りには、蝦夷の完全支配または融和を象徴するなどの政治的な意味合いがあったのかもしれません。他にも、例えば当時力を持っていた陰陽師のような宗教官僚による宗教観念的なデザインだったりしたのかもしれない。そういう方向で考えないとつば元で極端に反るという形状の使いにくさを説明し難いように思われてならないのです。外国の刀剣にも例がありません。
実用面でいうと柄が棟側に反ってはいけないのです。刀身中央を反らせて、柄はむしろ少し逆方向・刃側に反らせるべきです。製作面でいうと刀匠的にはそれはとても簡単な事だと聞きます。
古墳時代の装飾付大刀以降の「木柄刀=儀仗刀」という系譜が存在する。だから最初期の日本刀の形状は馬上戦闘云々とは関係なく、実用を考えずに儀仗刀としてデザイン優先で作られたものなのではないかなと考えるのです。実用性よりも権威性や宗教性が主体のデザインなのではないかと。そして実用に難があったからこそ、初期の腰反りの形状が鎌倉時代に輪反りになったのだろうと考えます。
・・・・・
↑改めて最初の刀剣画報の近藤博士の記述。
素環頭大刀の環頭を切り落として直刀にして、木製の柄をつけて、それに反りをつけたものが日本刀になった、、、と考えると素環頭大刀が直接の日本刀の先祖という考え方もできるでしょうか。日本刀の源流が蕨手刀というよりは正しい流れであるように思います。日本刀の成立に蕨手刀が影響を及ぼしているのは間違いがないと思いますし、それを否定するものでは全くないのですが。
・・・・・
20世紀の抗日大刀
環首刀と大差ないデザインのまま2000年以上使用されているのですから、環首刀の完成度の高さが伺えます。
シンプル・イズ・ベスト
・・・・・