蕨手刀→毛抜形蕨手刀→毛抜形太刀→日本刀
 
この通説が間違っているようだという事を最近書いています。
 
まだこの通説を信じている人は多いのではないでしょうか。
 
1960年代に出された石井昌國氏という大家の有名な学説で通説化していました。しかし、ここ10年ほどで別の学説の方が有力になっているようです。
 
結論から書くと、「方頭大刀に反りがついて日本刀になった」が現在の専門家の中での有力説のようです。
 
 
 
↑方頭大刀
 
これに外装がつくとこんな感じ↓
 

兵杖用(実戦用)

 

 

儀仗用

 

方頭大刀とは、唐の刀の様式をマネたもの。または輸入品。

 

刀身だけでいえば刀剣界隈でいうところの上古刀と呼ばれる直刀。

 

つまり蕨手刀が発展して日本刀になったのではなくて、上古刀が反って日本刀になった。

 

結論だけ書いてしまうとシンプル過ぎるのですが、蕨手刀が日本刀になったというより余程説得力があります。

 

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今回の記事を書くにあたって読み込んだ資料↓

 

 

タイトル    日本刀の成立過程--木柄刀と古代刀の変遷
著者    津野 仁

2010年

 

↑日本刀の成り立ちについて書かれた論文などは決して多くないようなのですが、私がみつけたものの中では最新です。学術誌掲載の論文です。わざわざ図書館で書庫から出してもらってコピーしてきました。

 

 

タイトル    日本古代の武器・武具と軍事
著者    津野仁 著 2011年

 

よく見たらこの本に上の論文全部のってました!

 

タイトル   日本古代の軍事武装と系譜
著者    津野 仁 2015年

 

↑同論文の著者が書いた専門書。専門書なので一般人向けの内容ではない。大学の講義で教科書にされるようなタイプの本。

 

刀剣-武器から読み解く古代社会-
2022/10/15
古代歴史文化協議会 (編集)   

 

 

↑こちらは一般書。歴史好きなオジさんとかが読む本。一般書の内容はあまり真に受けてはいけないものも多いのですが、この本は大丈夫です。この記事の写真はこの本から抜粋しているものが多いです。

 

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ざっくり書くと、津野氏の著書には

 

1:方頭大刀には「木製の柄をつけるタイプ(木柄刀)」と「柄も鉄性で刀身と一体構造(方頭共鉄柄刀)」のものがある。

2:方頭大刀に反りのあるものが出土している。

3:共鉄柄の方頭大刀が毛抜形太刀になった。

4:木製の柄をつけるタイプが日本刀になった。

5:毛抜形太刀が発展・変形して日本刀になったわけではない。

6:毛抜形太刀は儀仗用

 

上記を踏まえて「蕨手刀からの毛抜形太刀成立説を見直すべきであると考える」 と記載されている(日本刀も同様)

 

 

 

 

次に刀剣-武器から読み解く古代社会-のほうの記載

 

こちらは主に古墳時代までの内容がメインなので日本刀の成立云々に関してはあまり書かれていないのですが、最後の方に以下のように書かれています。

 

「8世紀後半には、蕨手刀の影響で柄が背側に反る方頭大刀が現れる。反りの発生は、従来と刀の使用方法が変化したことによると考えられる。その後刃に反りが生じ、10世紀には現代に続く日本刀が完成したと考えられる。

 

 

この本は2021年の本です。津野氏の2010年に発表した論文以降約10年。この間に1960年代以来の石井氏の「蕨手刀→毛抜形太刀→日本刀」の古い通説への疑いが強くなり、津野氏の「方頭大刀→日本刀」説の方が専門家の間で有力になったのかもしれません。だから一般書の「日本刀の成り立ち」の書き方がこのようになっている。反面「蕨手刀の影響を受けて」と書かれているので刀が反る事と何かしら関係はあるのかもしれない。

 

 

ちなみに今回あげた資料の中には「馬の上で使用云々」に関しては全く記載がありません。

 

「使用方法が変化」とか「戦闘様式の変化」とか、微妙に馬上使用うんぬんの従来説の記述が敢えて避けられているようにも感じられました。

 

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この記事の内容に多少関連してなのですが、そもそも方頭大刀にはなぜ「木製の柄をつけるタイプ」と「刀身と一体の鉄柄タイプ」の2種類が存在したのか。

 

この理由はわからないし今回読んだ資料には記載がなかったのですが、刀剣-武器から読み解く古代社会-のほうに興味深い記載がありました。

 

 

 

↑素環頭大刀

 

弥生時代に大陸から伝来した日本で最も古い鉄刀の形式。古墳時代まで使用されていたようです。たぶん皮を柄の部分に巻いて使用したのでしょう。

 

次に木の柄を取り付けるタイプが現れる。

 

 

↑こういう感じで木の柄を取り付ける直刀は弥生時代の末期あたり、素環頭大刀の少し後からみられる。

 

初期の木柄を取り付ける直刀というのは、大陸から輸入した素環頭大刀の環頭部分を切り落としたものではないかと書かれていました。

 

 

以下抜粋

 

直刀の成立過程は諸説あるが、弥生時代の直刀は大陸から持ち込まれた素環頭大刀の環頭部を裁断し、直刀へ改変したという見解が定説となっている。実際、鳥取県青谷上寺地遺跡、福井県乃木山墳丘墓などで裁断された環頭部のみが出土し、先の見解を補強している(図16)

 

木柄の直刀が刀剣の主流になるのですが、素環頭大刀の方も古墳時代まで使用されています。木柄刀と鉄柄刀は同じ時代に併存していた。手への衝撃は木柄をつけるほうが少ない反面壊れやすいでしょう。成瀬関次の書く軍刀故障でも柄が6割。その点、柄も鉄で一体なら壊れない。

 

弥生時代から鉄柄刀と木柄刀が併存していたから、奈良時代~平安時代の方頭大刀も木柄と鉄柄の刀が両方存在していたのだろうか?と考えたりしています。

 

鉄柄刀は最終的に毛抜形太刀になりその後日本では廃れてしまい、木柄刀が現代まで残る。

 

ただ、津野氏のいうように「毛抜形太刀→日本刀ではない」というのは正しいのか。

 

毛抜形太刀と初期の日本刀の姿は酷似しているのに。

 

この点については長くなりそうなのでまたそのうち書きたいと思います。

 

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以下は雑感

 

元々日本刀の起源について考えるようになったのは、備前長船助光刀匠が「日本刀は馬上使用のために生まれた形ではない」と断言されていた所からです。古い絵巻の徒士武者もみんな腰反りの太刀じゃないか、とも書かれていました。

 

日本刀の起源については私もかなり以前から通説がおかしいというか、腑に落ちなかったのです。

 

 

↑この蕨手刀が日本刀の起源?

おかしいだろと。

馬の上で使うから反りがある? 

こんな短いのに馬上用に作ったの?

 

そもそも形が違い過ぎる。

 

 

↑どう見てもこういう上古刀の方が日本刀に近いだろと思っていました。

 

そして今回調べてみたら、こちらの直刀に反りが生じて日本刀になったという方が現在有力な学説だという事がわかりました。

 

「蝦夷の騎馬戦闘を取り入れたから反りのある蕨手刀を参考にして、馬上戦闘用の刀として日本刀を作った」

 

この通説はもうあまり支持されていないようです。

 

ちなみに、「蝦夷は馬に乗って狩猟してたから騎射戦術が得意だった」という従来の認識も間違いに近くて、狩猟はしていたけど「蝦夷は基本的に農耕民」と津野氏の文献には書かれていました。馬は倭人との交易品として重要だから飼育していた。当たり前ですが蝦夷はモンゴル人のような騎馬民族とは違うのです。基本的に農民。

 

「刀剣の馬上使用」に関しては今回見たどの資料にも記述自体がなかった。どの種類の刀剣においても。不明なので否定も肯定もできませんが、、、論理的に考えれば刀剣で白兵戦をする場面というのは敵の館や砦や城を攻める時、つまり下馬使用の方が大半だと思います。日本の国土では。わざわざ馬の上で使う事を重要視して刀剣をデザインしたりするものでしょうか。そして、あの短い蕨手刀の反りの説明にもならない。

 

 

あと、今回あらためて強く意識させられたことですが、儀仗刀と兵杖刀(実戦刀)をわけて考えなければならないという事です。ここはすごく重要です。

 

現在我々が目にする古い時代の刀剣:特に状態の良い平安時代以前の刀のほとんどは儀仗刀の方なのです。儀仗刀は兵杖刀から分化したものだとは思いますが、儀仗刀をみて実用云々を考えてはいけないという所に難しさがあります。良い状態で伝世している毛抜形太刀や初期の日本刀は基本的には儀仗刀の方なのです。

 

個人的な見解としては、毛抜形太刀を木柄刀で模してつくり儀仗刀として制定された初期の日本刀(太刀)が、なんらかの理由により兵杖刀としても採用・制定されてしまったのではないかと考えます。それが兵杖刀としての日本刀のはじまりなのではないかなと。だから明らかに使いにくそうな形をしている。

 

儀仗と兵杖の違いは刀以外の装備品にもあるわけです。馬具とか。誤解されると良くないので、できればここで紹介した津野氏の文献などを一度読んで頂く方が良いです。ただし専門書なので面白くはないです。

 

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