先日テレビをみていて気になった写真があったので少し検索してみたら面白い写真をみつけました。

 

 

 

 

↑幕末のフランスで撮られた写真。文久遣欧使節団の一員の写真です。テレビにこの写真が映ったのを見た時に「柄巻きが片手巻きだ」と思って、もう少しみてみようと思い検索してみました。なんとなく、幕府のエリート官僚がこういう刀装なのが気になったのです。

 

 

検索すると、随員が全員パリで個人写真を撮ったようで画質の良い武士の写真がたくさんありました。

 

それらを見ていると、私のイメージとは少し違う江戸時代の刀装の姿が。

 

大刀と脇差は刀装を揃えるのが一般的だと思っていたのですが全然そろっていなかったり、大刀には笄と小柄をつけて「脇差に笄はつけない」とウィキペディアには書いているけど大刀には笄をつけずに脇差に笄をつけている人が多かったり。「脇差は鍔のある刀を差す」という事になっていたはずなのですが鍔のない合口拵が多かったり。そもそも脇差ではなく短刀なのかもしれません。

 

 

以下、文久遣欧使節団の写真の刀まわり↓

 

 

↑脇差に笄がついている

 

 

 

↑脇差に笄がついている

 

 

↑脇差に笄がついている

 

 

 

↑脇差に笄がついている

 

 

↑脇差に笄がついている

柄糸の色が大小で違う

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

 

↑脇差が合口拵

 

 

 

↑元の写真は全部こちら

 

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この使節団の写真を見ると、私が普通にイメージする脇差を差している人はほとんどいません。

 

私がイメージする普通の脇差

木村芥舟、1868年頃↓

 

 

こういう脇差を差して、ウィキペディアに書かれているように大刀に小柄と笄、脇差に小柄をつけてというような刀装は登城時など限られた場面の刀だったのでしょうか。

 

文久遣欧使節の写真は公務中の写真なので、幕末頃には刀装の決まり事のようなものは有名無実だったのか。

 

使節団の脇差は、合口拵と「喰出鍔」という小さい鍔の脇差が多いように見えます。

 

喰出鍔の短刀↓

 

 

 

 

 

喰出鍔は小脇差や短刀につける鍔です。

 

喰出鍔の拵や合口拵の彼らの刀は、刀身も脇差ではなく短刀なのかもしれません。

 

これが幕末頃の一般的な刀装なのか、この使節団の刀装が当時の一般的なものではないのかは不明です。

 

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ヤフオクなどで売られている刀には脇差の鞘に笄櫃のあるものが多くあります。

 

それらは町人の刀だったのかなと思っていましたが、必ずしもそうではないのかもしれません。

 

この使節団の写真を見る限り、大刀に笄をつけている人よりも脇差に笄をつけている人の方が圧倒的に多いわけですから。

 

 

 

また、大刀と合わせにくいような洒落た外装の脇差が売られているのも見ます。

 

例えばこういうの↓

 

こういうのは大小揃えるのは難しそうだから、やはり町人差しだったのかなと思っていました。

 

でも、大小合わせていない武士も多そうです。

 

 

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江戸時代に入り新刀期になると短刀がほとんど作られなくなったそうです。

 

幕府が大刀と脇差の二本差しを武士に定め、脇差は一尺以上二尺未満と定めたせいでしょう。

 

新々刀期には短刀の制作がまたさかんになるのですが、その理由は脇差の代わりに短刀を差す武士が増えたからなのかもしれないのかなと、文久遣欧使節団の写真を見て思ったりもしました。

 

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そういえば過去にも一度紹介した事がありますが、居合の達人の町井勲氏のお店でこういうものが売られていました。

 

https://nihontou.jp/choice03/tousougu/koshirae/020/00.html

 

↑これで大小セットだそうです。以下説明文をコピペ

 

幕末に流行した意匠を統一しない様式の大小拵で、粗見すると全く異なる打刀拵と合口脇指拵に見えますが、柄に装着された目貫がこの拵が大小であることを証明しています。
大刀の方は色良い赤銅磨地に繊細な仕事で沙綾形を金象嵌とし、小刀の方は腰までを変わり塗りとし、先の方は鶴の脚皮を蛭巻仕立てにした非常に粋で珍しい物になっています。双方に装着された家紋の目貫は、指表側を金に、裏を赤銅で表した昼夜仕立て。こちらもとても渋い仕上がりです。