不平不満は自己を卑しくする | i

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Thank you!!

どうも、木全です。


陽があったかいね。
こう寒暖差が激しいと、身体もまいっちゃうよね。
年末から風邪ひきっぱなしの人もいるみたいですが、ご自愛ください。

自分の身は、自分でしか守れません。



最近さ、あんまりパッ!とするようなたのしい出来事がないよね。
やれ異物だー、刃傷沙汰だー、とかさ。
共通して感じるのは、我慢の利かない人が増えたってことかな。


みんな、自分しかみてないよね。
自分がよければそれでいい。
自分がイヤだと思うこと、自分が心地よく感じないことはすべて却下。

「ありえなーい」

その考えこそが、ありえないことに気づかない。



いるんですよ。
木全もプライベートでね、友人の誕生日会とか壮行会とかいろいろ考えたりするわけです。
企画するほうとしては、いろんな人の都合をきいたり、その人のことを考えて、よかれと思って準備する。

しかし、そこに自分の考えが聞き入れられなかったり、ちょっと予想外なことがあったりすると悪口いうわけです。
それも面と向かって、ひとつの意見としていってくれるならまだしも、そうじゃない。

いまの時代って、めんどくさいよね。
LINEとかFBとかツイッターで「あの人がこういってたよ」とくるわけです。
本当、げんなりします。

「うんざり」でも「むかーっ!」でもなく、「げんなり」です。



10人いて10人全員が満足することなんてまずありえない。
全員の意見を聞いていたら、なにひとつ実現することなんてない。
家族の夕食だってそうじゃない?

自分は焼き肉が食べたいのに、弟はカレーが食べたいといったり、妹は焼き芋が食べたいという。
食事を用意するお母さん(お父さん)は、その3つを作るだろうか?

なかには、いるかもしれない。
全員の笑顔をみたくて、ムリしてしまう人が。
(そして疲れ切ってしまう)


しかし、大抵の場合はそうじゃない。
「総意」をとる。

だって、民主主義なんだから。




誰もがちょっとずつ何かを我慢して、でも、

「この人のためだから」
「この人ががんばってくれたんだから」


という気持ちでこらえている。


自分の我を通したかったら、自分が中心となって企画すればいい。

それを厭うくせに、文句ばかり言う。
不満だけを口にする。

自分にとってのマイナスを受け入れるからこそ成長できるし、
他人を思いやることができる。

自分にとってプラスしか必要としないから、いつまでたっても子供のまま。
誰にも感謝することなく、必要とされることもない。
かなしいね。






山川ゼミ長、いつも遠くからありがとね。






「お客様は神様」だから、卑屈になって我慢して腰を低くするんじゃない。

「お客様は神様」だから、心を込めて精一杯自分にできることをやる。
そして、よろこんでいただく。



神様には、福の神もいれば貧乏神もいる。
疫病神もいれば、美の女神も商業の神もチャンスの女神もつくも神もいる。

どんな神様に出会うかは自分次第だし、出会ったときにどう振る舞うかで人生も変わる。
どんな神様に出会っても、自分が持ちうる限りの力を尽くし、誠心誠意立ち向かっていく。



それは、日々の中でも同じなんじゃないだろうか。


誰もが誰かのためになにかをしている。


心を込めて、食事を提供してくれる。

キミがいつでもステキでいられるような服を生み出してくれる。

心をいやす音楽を紡ぎだしてくれる。

忙しいキミに変わって、部屋を掃除したり洗濯してくれる。

目的地に到達するために、移動手段を確保して、連れて行ってくれる。

困っているキミに、手を差し伸べてくれる。



感謝の気持ちがあれば、多少の不平不満なんて自己の中で処理できてしまうことだ。

感謝の気持ちがないから、面白半分に誰かを傷つけたり、ありえないクレームをつけたりする。



世の中が悪いんだろうか。


いいや、けっしてそうじゃない。

心が卑しくなっている。
あまりにも、自分中心すぎている。

それは「自由」なんかじゃない。
ただの我儘であり、未熟な自己の発露。
それを自覚しない人が、いまの世には溢れているということだ。



自分ははたしてどうなのか?
胸に手を当てて考えたいね。