「具体的世界は作られたものから作るものへと創造的に動き行くのである」と西田が言うとき、それは、世界は本来的に創造的飛躍を含んでいるということである。それまでそこにはなかったものの到来を無限に受け入れるのが具体的世界であり、歴史的世界であると西田は考える。
その飛躍を具体的にもたらすものが「技術的身体」であり、この身体の「制作」によって、世界に新たな形がもたらされる。生物的世界を物理的化学的世界に還元することはできない。後者によって、前者の現実的な多様性は説明できない。物理的化学的世界においては「作られたもの」でしかない身体が、「作るもの」として、それまでの物理的化学的世界にはなかった形を「制作」するとき、その制作的世界が歴史的生命の世界に他ならない。言い換えれば、この「制作」によってはじめて、物理的化学的身体は「歴史的身体」になる。
世界を円のメタファーによって西田が考えていたとき、たとえ中心がいたるところにあり、円周がどこにもない無限で無数の円を考えたとしても、そのすべての中心点は同一の非時間的な平面上に含まれている。そこから出ることはできない。「永遠の今」を表象することはできても、その自己限定から生まれる時間が表象できない。言い換えれば、円においてはすべてが既に与えられている。
円のメタファーと鏡のそれとが西田においては密接に結びついており、「映す」「包む」等の動詞がそれに連動して頻用されることもそれと無関係ではない。そこに創造の契機は内包されていない。鏡は、「映す」ことはできても、「作る」ことはできない。
「歴史的空間は平面的ではなくして球面的でなければならない」と西田が言うとき、具体的歴史的世界は、「作られたもの」の平面から飛躍する無数の方向性を持ったベクトルを孕んでいなくてはならないと考えてのことである。時間を内包し、無数の方向に無限に広がっていく球面のメタファーは、ある平面上の無数の点である「作られたもの」がその平面から飛躍して「作るもの」となる創造の契機を含んだ世界像に対応している。