2. 3. 3 諸観念がそこにおいて現実化される奥行(3)
メルロ=ポンティは、本質 ― 言葉の「向こう側」を、それ自体で考え得る一種の実体のようなものとは見なしていない。では、どこでそれを把握するのか。
この問いについてもまた、立方体を例に取って考えてみよう。立方体の知覚は、与えられた立方体を様々な角度から視察しなくても、あるいは新たにその定義を想起してみなくても、実現可能である。例えば、平面上のいくつかの直線の組み合わせからなる立方体の見取り図を見るだけで、その場で、奥行を有った一個の立方体を知覚することができる。これが可能であるためには、知覚世界にすでに〈本質〉の次元が与えられていなければならない。したがって、立方体の知覚において、〈事実〉と〈本質〉との間に対立はない。確かに、立方体の平面図は立方体そのものではない。その証拠に、その平面図のうちの或る面に斜線を入れただけで、それは立方体の見取り図として見えなくなってしまう(voir PP, p. 304)。しかし、この価値喪失可能性こそが、なぜ、平面図を見ただけで立方体を知覚することができるのかという問へと私たちを導くのである。
「私は一個の立方体を見ている」― この知覚的信において、「知覚された本質」とも呼べるものが作動している。この知覚された本質は、反省的思考によって抽出された本質に先立つ。知覚された本質は、見えないものであり、知覚経験の中で見えるものを支えているが、この本質が、それ自体によって考えられ得るものとして反省的思考によって措定される本質の起源であって、その逆ではない。なぜなら、視察による反省的検証に先立って、立方体の知覚は、それとして端的に可能だからである。知覚的信は反省的知に先立つ。そもそも、立方体の見取り図の場合、そこに与えられた諸側面を異なった角度から視察することさえできない。
もし、知覚の領野から知覚された本質が機能する次元が失われたとすれば、或る物が立方体として見えることさえ不可能になってしまう。知覚された本質がそれとして機能する場所においてこそ、様々な視像が奥行のうちに自ずと組織化されるのである。この知覚された本質なしには、一つの平面上に見られている立方体の見取り図の中に奥行が立ち現れることもない。それは、三次元空間の場合も同様であり、この知覚された本質がなければ、見られた立方体は、たとえまだ〈見えるもの〉という身分は失わなかったとしても、己を立方体として同定可能にしているその隠れている面と厚みを失ってしまい、立方体としての価値も消失する。
知覚された本質は、しかしながら、絶対的確実性を基礎づけるものではない。なぜなら、立方体を知覚しているという信は、隠れている面の存在についての疑いを最終決定的に排除することは決してできないからである。私たちは、この知覚的信を生きることしかできないのであり、そこに留まるかぎりは、絶対的明証性を有った真なる命題にそれを置き換えることはできない。
本質は、見えないものの次元である奥行を見えるものに与える。しかし、本質は、それ自体として、見えるものから独立に存在するものではない。本質は、見えないものであり、見えるものがまさにある一定の仕方で見えるように、見えるものに己を与える。見えるものを裏打ちすることによって、いわば見えるものの内側から見えるものにその形姿を与える。この意味で、本質は、見えるものの奥行に住まうのである。
見えるものに住まい、見えるものがそのように在るということを知覚世界にもたらしている、この「生きて働く本質」と見えないものの次元である奥行との関係を、さらに踏み込んで考察してみよう。奥行のうちに本質が住まうということは、見えるものが奥行を有っているということから必然的に導かれる論理的帰結ではない。なぜなら、もしそうであったならば、奥行のうちに一個の立方体を見るということそれだけによって、上に言及したような懐疑を排除することができるからである。見えないものである本質によって裏打ちされることによって、見えるものは奥行を有つ。見えないものは、しかしながら、それ自体で存在し、見えるものに先立つものではない。なぜなら、本質は、様々な視像の変化を通じて、不変項として知覚世界の中に現成するものであり、見えるものによって所有された奥行として、見えないものにとどまるからである。もし見えないものがなければ、見えるものはなく、もし見えるものがなければ、見えないものもない。両者は、事実上不可分であるだけではなく、原理的に不可分なのである。一方が他方に還元されるということもない。両者の間の関係は因果関係ではない。一方の他方に対する優位性ということもない。両者は、知覚の領野が奥行のうちに現実化されるのに協働しているのである。本質は、原初的な奥行にその〈肉〉を与え、その奥行そのもののうちに住まう。