2. 3. 3 諸観念がそこにおいて現実化される奥行(2)
観念を知覚世界における奥行として捉えようとするメルロ=ポンティの考え方を、一つの具体例を挙げて検討してみよう。
一個の立方体について、次のように想定してみよう。私は、この机の上にある一個の物体を観察しながら、立方体とは何であるかを今初めて学びつつある。私の目の前に一つの見える物体がある。最初にこの立体について私に与えられているのは、「立方体」という名前だけである。それ以前にすでに学習済みの直線、角度、三次元空間などについての基礎知識を手掛かりに、私はその物体をいろいろな角度から観察しながら、その定義と属性を学ぼうとしている。そうすることによって、注意深い視覚的検討を通じて、私は立方体という観念を把握するに至る。一度その観念を認識すると、私は、新たに提示された別の個体が立方体であるかどうか、それが先に得られた定義を満たしているかどうかを様々な面を見ながら確認することによって、判断することができるようになる。
どのようにして、ある一つの立方体の様々な視像を通じて、立方体の観念を把握するに至ったのだろうか。問い方を変えれば、どうして、今此処に見えている一個の物である特定の立方体によって、立方体一般が何であるか学び、その定義を言うことができるようになったのだろうか。反省的思考による総合作用が、継起的に与えられる相異なった視覚的所与に一つの統一性を与え、この統一性によって立方体の観念を私は獲得したのだろうか。あるいは、立方体の常に自己同一的な永遠の本質あるいはイデアが、その一つの感覚的表象でしかない一個の見える立方体についての経験とは独立に、超越論的な知識の領域に私が入ることを可能にしたのだろうか。
立方体の観念は、或る観点から見て隠されている面と同じ意味で見えないものの序列に属しているのではなく、本性上見えない。この意味で、いかなる視像も立方体の観念には一致しない。しかし、もし、ある一個の見えている立方体の諸側面について何も知らないままに立方体の観念を有つことができたとしたら、この見えている何ものかが立方体かどうか、眼差しによって観察しながら結論を下すことがどうしてできるだろうか。先に見たように、私が一個の立方体を見ているときに私に与えられるのは、継起的な異なった視像の間の相互外在的関係ではない。そこで私に与えられているのは、互いに他を表現し合う諸項間の相互内在的関係である。そうでなければ、私はいったい立方体について何か学ぶことがどうしてできるだろうか。
なぜ、ある一個の立方体の様々な視像は、このような内在的関係を有っているのだろうか。このような関係が可能なのは、私が考察の対象となっている立方体の定義と諸属性とを学び始める前に、私において、同じ一つのものを見ているという信がすでに作動しているからである。この「知覚的信」がまずあるからこそ、同じ一つのものが私の眼差しに対してそれとして現れるのだ。
しかしながら、この知覚的信にのみよって立方体の知覚が成立するのではない。確かに、この知覚的信によって、私の目の前に何かあるという確信は有つことができる。しかし、まだそのものが何であるかは分かっていない。言葉によって、立方体の観念をそれとして、つまりその本質を私は理解する。
しかし、それは、語る主体である私と永遠に不変な本質との間に言語活動の中で一致や融合が発生するということを意味しているのではない。「生きていて活動状態の本質は、常に、言葉の配列によって示される消失点、それら言葉の「向こう側」であり、その向こう側には、それら言葉の中で、まず、そしていつも生きることを受け入れる者しか、接近することはできない」(« l’essence à l’état vivant et actif est
toujours un certain point de fuite indiqué par l’arrangement des paroles, leur
« autre côté », inaccessible, sauf pour qui accepte de vivre d’abord et
toujours en elles », VI, p. 159)。
言葉の「向こう側」である本質は、それらの言葉なしにそれとして存在するのではない。それは、語る主体や複数の語る主体が構成する共同体によって構成されるのでもない。本質は、私たち語る主体によって、言葉を通じて、言葉の彼方に目指されるものである。それゆえにこそ、すべての語る主体がそこに根づいている知覚世界の中に、例として挙げた立方体の同一性のように、個別的な同一性が物象化するのである。