古来、ナルシス神話は、多くの詩人・画家たちに芸術的創造のインスピレーションを与えてきたし、プロティノスをはじめてとして、哲学者たちの認識論的あるいは倫理学的関心も惹きつけてきた。例えば、古代の哲学者たちについて、彼らのナルシス神話の解釈の仕方を比較することで、それぞれの哲学的立場を際だたせることもできる(この点については、Pierre Hadot, Plotin, Porphyre, Études néoplatoniciennes,
Paris, Les Belles Lettres, 1999 に収められた論文 « Le mythe de Narcisse et son interprétation par
Plotin », p. 255-266 を参照)。
ナルシス神話には、いくつものヴァリエーションや解釈があるが、オウィディウスの『変身物語』(あるいは『転身物語』)の中の「ナルシストとエコー」が特に有名である。ラヴェルも、『ナルシスのあやまち』の冒頭で、オウィディウスに言及している。しかし、この記事では、ラヴェルがそこにどのような哲学的問題を見て取ったかということがテーマなので、このラテン文学の古典の内容そのものには触れない(この物語にご興味をお持ちの方は、岩波文庫版で簡単に邦訳が入手できるので、そちらをご覧になってください)。
ナルシスのあやまちとは、どのようなあやまちか。それは、生命を欠いた自己の表象に過ぎないものを自己と取り違えるという不幸なあやまち、言い換えれば、自己がそこにはいないところに自己を探すことによって、本来的自己から遠ざかり、自分を見失うというあやまちである。つまり、ナルシスは、自己愛の不可能性にも、存在的自足性に含まれた根本的な存在論的欠落にも気づくことができなかったのである。本来的自己とは、けっして対象化され得ない、不可視な「精神としての自己」である。この生ける自己は、つねにそれ自体で自足する自己同一的な実体(substance)ではなく、作用(acte)としてのみありうる存在(être)である。それは、自己において自己を見つめるためにあるのではなく、世界において本来的に孤独であること自覚しつつ、その万人に共通する実存的孤独を通じて他者と共に生きるためにある。
自分の声を奪われ、自ら最初に言葉を発することを禁じられ、ただ人の言葉を繰り返すだけ、しかもそれを不完全な仕方でしかできない精霊エコーからの求愛を、ナルシスは拒否する。ラヴェルは、ナルシスがそれから逃走しようとするこの精霊の求愛に、ナルシス自身の不可能な自己愛の影を見る。他者を愛しえないナルシスは、泉の水面に映る自己の虚像に執着し、それを手に入れようと、手を差し伸べ、水中に飛び込み、命を落とす。虚像の世界に入り込もうと試みる者を待っているのは死だけである。
水面に映る自己の虚像は、ただ眺めることができるだけで、けっして抱き寄せることはできない。その虚像は、それを眺める私の所作をただ真似ることができるだけで、自ら声を発することはけっしてなく、自分から近づいてくることもない。視覚像は、触れ得ない見かけしか与えてくれない。不可能な自己愛に閉じ込められたナルシスは、誰にも触れることはできず、誰からも触れられることもなく、聞くことができるのは自分の声の谺だけ。ナルシスは、単に孤独であるというのではなく、他者を愛することによってしか現実化できない精神としての本来的自己を見失い、虚像の世界を独り彷徨う。愛の対象たり得ない、美しいが虚しく儚い自己の幻像の虜となる。自分が愛するものから愛されることを切に願いながら、その願いはけっして叶えられることはない。生きるかわりに、自己の虚像を見つめるナルシスとは、つまり、この世に生きる意志の否定にほかならない。