承久の乱後、後鳥羽院の血統を皇位につけることを許さなかった幕府の執権・北条泰時は、出家していた守貞親王(行助入道親王)の三男で幼少(四歳)の茂仁王(後深草天皇)を践祚・即位させる。茂仁王の母である持明院棟子の父基家は、源頼朝の妹婿である一条能保の叔父であり、母は平治の乱で頼朝の命を救った池の禅尼の孫であった。これらの影響が即位に繋がった要因とされる。そして承久三年八月十六日に父である守貞親王は、慣例にはない太上天皇の尊号を奉り法皇として幕府の権勢の中、承久の乱の戦後処理と院中で政を治められたが、翌年の貞応二年(1223)五月十四日薨去している。十歳になる後堀河天皇に対して多くの公卿が自身の娘を入内させるために活動が活発化させせた。三条公房の娘・有子(安喜門院)、関白近衛家実の娘・長子(鷹司院)、西園寺公経の婿、九条道家の娘・竴子(藻璧門院)に中宮に立て四条天皇が生まれる。貞永元年(1232)十月二十四日に、二歳の四条天皇に譲位し、太上天皇となり将来的に治天の君として院政を行おうとした。しかしその背景には、西園寺公経と九条道家が外祖父としての立場を得るための譲位であったとされ、また竴子(藻璧門院)は、天福元年九月十八日第二皇子を死産した上自身も命を無くす。そして後堀河天皇は、元々病弱であったため、その翌年の天福二年(1234)八月六日に宝算二十三歳で崩御している。
残された四条天皇は、仁治三年(1242)二月十日に不慮の事故により宝算十二歳で崩御し、高倉院の血統はここで絶えた。四条天皇が幼かったため、子もおらず皇位継承を行える者がおらず、九条道家と西園寺公経や道家の姉である中宮東一条院(九条立子:順徳天皇の中宮)が順徳院の皇子・忠成王の即位を望み、幕府にもその意を通じて準備を進める。丁度その頃、後鳥羽・順徳院の環京運動が、九条道家や摂政教実らによって行われており、幕府は、以前の四条天皇への譲位等と共に九条家に対する警戒感は募っていた。北条泰時は、承久の乱に否定的であった土御門院の皇子に目を付ける。有力な後継者もなく近く出家することになっていたであった邦仁王(後嵯峨天皇)である。邦仁王の母・通子は、源通親の長男・参議正四位以下左近衛中将源通宗で、承久の乱により土御門院が土佐へ配流された後、母方の叔父にあたる前内大臣土御門定道の許で育つ。土御門定道は泰時の妹(竹殿)を妻としていた。この擁立には泰時の異母弟である、六波羅探題の重時(同母の兄)が追力したとされる。幕府は承久の乱の再発を防ぐため乱での討幕派の首謀者の一人であった順徳院の皇子の即位を許すことが出来ず、鶴岡八幡宮の神託と称し、仁治三年(1242)正月二十日に元服させ邦仁と名乗らせた。この状況を見た西園寺公経は、縁戚の四条隆親の邸宅である冷泉万里小路殿に迎え践祚させたのが後嵯峨天皇である。この間十一日の空位期間が発生した。当時の公家の日記『平戸記』『民経記』の仁治三年正月十九日条に邦仁王擁立を非難する記述が残すなど、幕府が皇位擁立の干渉に対し公家社会に大きな衝撃を与えたようだ。現在この擁立に対して仁治三年の政変としている。そして幕府が帝位に干渉して行われた承久の乱後の後堀河天皇と今回の後嵯峨天皇の擁立で二度目であった。
(wikipedia引用、後堀川院像、四条天皇像)
後嵯峨天皇は承久二年(1220)生まれであるため即位した仁治三年(1242)では、二十三歳であった。同年三月十八日に即位式が行われ、西園寺公経は、同二十五日には天皇に働きかけ、関白であった近衛兼経(九条道家の娘婿)から道家の次男であった二条良実に交代させた。良実は、父道家との確執があり、優秀な人材であったために公経に庇護されており、西園寺公経は九条道道家を無視し、孫の姞子を入内させて中宮に立てることに成功した。後嵯峨天皇は、後見人が少ないために、朝廷の最有力者の西園寺家と婚姻関係を結ぶことにより安定化を計ったと推測される。後嵯峨天皇は姞子との間に寛元元年(1243)に久仁親王(後堀川天皇)が生まれ、建長元年(1249)には恒仁親王(亀山天皇)を産んでいる。そして後嵯峨天皇は、在位四年の寛元四年(1246)に久仁親王(後深草天皇)へ譲位し、慣例に従って太上天皇院政を敷いて直接治政を行った。正嘉二年(1258)に、後深草天皇に皇子が生まれるのを待たず、後深草天皇(十六歳)の同母(西園寺姞子〔きつし〕)弟・恒仁親王(後の亀山天皇十歳)を皇太子とし、さらに翌承元元年(1259)には後深草から恒仁親王に譲位させる。後深草にはその後に皇子が生まれたが、文永五年(1268)に後嵯峨は、後深草の嫡男(第二皇子)煕人新皇(四歳)を差し置き、亀山天皇の(第二皇子)世仁親王(よひと:二歳、後の後宇多天皇)を皇太子とした。
(wikipedia引用、後嵯峨天皇像、後深草天皇像、亀山天皇像)
この譲位継承に対して、後嵯峨院の亀山天皇に対する寵愛説や、亀山天皇の有能説が存在する。また、承元元年(1259)後深草天皇は十七歳になると瘧病(ぎゃくびょう:現在のマラリヤで間欠熱を起こす)を患い、譲位された一つの理由であったと考えられる。御嵯峨院は、治天の君を定めずに文永五年(1272)二月十七日、宝算五十三で崩御した。このため、後深草天皇(後嵯峨天皇の次子、持明院統)と亀山天皇(後深草天皇の同母弟、大覚寺統)と分れ皇位継承争う二つの勢力が発生した。後嵯峨天皇が後の継体について残さなかった事は、自身が、後鳥羽院を継承した者ではなく、後鳥羽の兄で 高倉天皇の血統を継承するが、それも幕府の意向により、践祚されたための皇位継承であり、自身が皇位継承を定めても幕府により撤回される旨を考えたからとされる。
『神皇正統記』の亀山院において、幕府がこの継承問題に対しての対応の記載がある。「後嵯峨院が崩御された後、後深草院・亀山院の兄弟の間に相争うことが起きたので、関東の鎌倉幕府が、二人の母である大宮院(皇后姞子)に訊ねた。すると、先院の御嵯峨院の生前の「御素意」当今(とうぎん:亀山天皇)であったという旨を仰せだったので、事態は定まって、亀山天皇は禁中で政務をお執りになった。天下を収めなさる事十五年、皇太子に譲位して慣例の如く太上天皇の尊号を受けられた。院中でも十三年間世を収められたが、時局が新たな面に変わったのち出家された。五十七歳であられた。」と記されている。「時局が新たな面に変わった」との記載は、持明院統の伏見天皇が即位し、後深草天皇の院政が決まった事である。
亀山天皇(大覚寺統)の子孫が皇位継承される既定路線となりつつあった。文永十一年(1274)亀山天皇の皇子・後宇多天皇の譲位がすると、後深草上皇が出家の意向を表明し、近習三十余人も共に出家するという騒動が起こり、同情した北条時宗・幕府は、後深草上皇の皇子である煕人(ひろひと)新皇を皇太子に据えた。しかしこの頃、元寇という国難に対し、天皇家の内紛が国益に悪影響を生み出すことを危惧した対応でもあったとされる。この度重なる幕府の皇位継承介入により両統迭立の始まりであった。 ―続くー