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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 南北朝期から室町初期に『義経記』(ぎけいき)が作者は不明だが著されている。源義経とその主従関係を捕らえ、後の能や歌舞伎、人形浄瑠璃などの文学作品に影響を与えた。現在の義経や周辺の人物像に関しては、『義経記』に多くを拠っている。『義経記』(ぎけいき)と訓読みをするのは、書物に対し人物を扱った場合に、当時は名を尊称として音読みが用いられたためである。個人に焦点を当てながら歴戦を著された『義経記』は、伝記風軍記物語とと呼べよう。その為、江戸時代の初期に織田信長の一代記として信長旧臣の太田牛一が著した『信長公記』(しんちょうこうき)『信長記』(しんちょうき)があり、これも音読みされた題名と影響を受けた書物である。また、安土桃山期には、秀吉の指示で御伽衆大村由己(おおむらゆうこ)により著された『天正記』があり、太田牛一も秀吉の功業を覚書風に『太閤軍記』を著している。これらの著書は、後世において大きな影響を与えた。

江戸期に入ると儒学者小瀬甫庵(ほあん)が、『甫庵信長記』、『太閤記』が著され、江戸中期での講談を元にした読本『絵本太閤記』が流行し、歌舞伎や浄瑠璃で、それを基にした『絵本太功記』が始めとして「太閤記物」が庶民に親しまれた。現在も多くの『太閤記』が著され吉川英治氏の『親書太閤記』や司馬遼太郎氏の『新史太閤記』などがある。この江戸初期の寛永年間に著された『三河物語』は、旗本であった大久保忠教、通称彦左衛門により著作され、戦国期から江戸初期の歴史形態を知る上で一時資料とされるが、徳川史観に偏った記述により、資料としての信憑性に欠如する。

『北条五代記』は後北条、小田原北条氏にまつわる伝記風軍記物語がこの時期記された。。

 

(wikipedia引用 水戸光圀像)

 『大日本史』の編纂が開始されたのが、明暦三年(1657)頃で、水戸徳川家当主、水戸藩主の徳川光圀は、世子の時に歴史に興味を持ち、「神武天皇から五小松天皇まで、南北朝が統一された元中九年/明徳三年(1392)の百代の天皇の治政を扱う書物として紀伝体の史書で本記(天皇)七十三巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に記述され、軍神は、ほぼ年代順列記。逆臣伝・孝子伝統の分類がみられ、百七十巻。志・標百五十四巻で、前三百九十七巻二百二十六冊によるものである。この事業が完遂されたの、二百数十年を要し、明治時代に入ってからであった。その為に水戸藩は修史局を置き、その名を彰考館とした。携わった学者たちを水戸学派と呼ばれ、幕末には尊王攘夷に大きな影響を与えている。また、徳川光圀は、延宝元年に自身が鎌倉を旅行した際の見聞記を基に、貞享二年(1685)、彰考館員の河合恒久(友水)らに命じ編纂させた地誌が『新編鎌倉志』である。

 

(鎌倉扇ヶ谷 太田道灌邸旧跡、英勝寺)

 この徳川御三家である水戸藩には、鎌倉と繋がる話が残されており、それを述べてみたい。水戸徳川家は徳川御三家と言われるが、その存在は、将軍後継に伴うもので、幕府本家の血筋が絶えた場合に、徳川家康の血筋を受け継ぎ継承するという家であった。しかし御三家の尾張・紀伊徳川家は大納言を極官とし、水戸徳川家は、それよりも低い中納言であった。しかし参勤交代の対象とはならず、江戸の小石川邸に駐在の定府大名であった事から「副将軍」として俗称の呼び名が起こったと考えられる。当時江戸幕府は、大名の一夫一妻制度を進めており、正室以外の妻妾や、その子供の存在が武家諸法度に問われる可能性があったとされる。初代水戸徳川家当主・水戸藩藩主徳川頼房は徳川家康の末子であり、母を家康の側室の養珠院(御万:陰山殿)で、鎌倉期における三浦義村の娘・矢部禅尼を先祖に持つ三浦氏嫡流の末裔とされる。そして准母が英勝院(於勝)であった。英勝院は、徳川普代の旗本・遠山綱景の娘、また江戸城築城で知られる太田道灌の祖孫ともされる。家康の側室として「おかち」「梶」「勝」として聡明な女性であったことで知られている。家康最期の子である市姫を三十歳で産み、市姫は仙台藩主伊達政宗の嫡男・寅菊丸(後の伊達忠宗)と婚約するが、四歳で夭折した。不憫に思った家康がお万の産んだ鶴千代(後の徳川頼房)、越前藩主結城秀康の次男である虎松(後の松平忠昌、)外孫振姫(姫路藩主池田輝政の娘)らの養母としている。後に振姫は伊達忠宗に嫁いだ。

 

 寛永五年(1628)六月十日に水戸徳川家、水戸藩主の徳川頼房の三男として生まれ頼重は、母は高瀬局(久昌院)といわれ、後に光圀も生んでいる。『桃源遺事』によると、高瀬局は、出羽山形藩主・鳥居忠正家臣の谷重則が父で、母は伊藤七朗兵衛の娘・養心院であった。母・養心院が水戸藩の奥向き老女となり、母に付き従い、奥に出入りするようになり、頼房の寵愛を受けて長男頼重を懐妊すると、頼房家臣の三木之次に堕胎を命じた。この時父である頼房は御簾中(正室)を迎えていなかった。三木之次と妻、そして頼房の乳母であった竹佐夫妻により匿われ麹町の三木之次の別荘で誕生している。その後、密かに権大納言・滋野井秀吉へ預けられ、京都の嵯峨野の天竜寺慈済院で学問及び武芸などを学んだ。

 徳川光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、高瀬局は奥付老女養心院の娘で正式な側室ではなく母に付き従っているうちに頼房の寵を得て、光圀の同母兄である頼重を懐妊したが、高瀬局の母養心院は憤慨して宥められず、正式な側室であったお勝の方(円理院)も機嫌を損ねたため頼房は堕胎を命じた。頼房の乳母奥付老女・三木之次の妻・武佐が頼房の准母英勝院に相談し、密かに江戸麹町の別荘で頼重を出産したという。光圀にも同様の堕胎命令が出されたが、光圀は水戸三木邸で生まれた。頼重と光圀の間には、次男亀丸を含め五人の兄弟姉妹がいるが、彼らには堕胎命令の伝承は無く、頼重・光圀に堕胎の命令が出されたかは不明である。母の勢力が無かったためであろうかと後年の光圀は語ったようである。寛永九年(1632)に水戸城に入場し、翌寛永十年十一月に光圀が世子に決定した。 

 

 光圀・頼重の帰府は、三代将軍・徳川家光や英勝院の意向であったと考えられ、翌寛永十一年に光圀・頼重は、英勝院に伴われ江戸城で家光に拝謁している。後に頼重は、高松松平家・讃岐高松藩主となり、『讃岐高松松平家家譜』によれば英勝院は将軍徳川秀忠に頼重の帰府を願い出て、寛永十年十一月に頼重の江戸水戸藩邸への帰府が実現したという。

 英勝院は、寛永十一年(1634)六月に、太田道灌の旧領で以前の屋敷跡の相模国鎌倉扇谷の地を徳川家光より賜り、菩提所として英勝寺を建立して住持した。寛永十九年(1642)八月二十三日に六十五歳で没し、法号を英勝院殿長誉清春大禅定尼とされた。墓所は英勝寺と静岡県三島市の妙法華時に残されている。英勝寺は、浄土宗寺院で、山号を東光山と号し、現在も鎌倉唯一の尼寺である。徳川家光や水戸徳川家から庇護を受け、水戸家初代息女・玉峯清因(徳川頼房の娘・小良姫)を開基に迎えた事で、代々水戸徳川家の代々の子女が門注(住職)に迎えていたため、格式が高く、総門(県重文)には三葉葵紋を掲げ、両側の黄土色の築地塀が続き、「水戸御殿」「水戸の尼寺」とも言われたという。英勝院没後は水戸光圀により、祀堂(県重文)が建立され完成の折には光圀も来訪している。総門が開くのは英勝院の命日のみで、普段は通用門から境内に入る。

 水戸徳川家及び水戸光圀にとっては英勝院は、まさに恩人の域を超えていた。また光圀は母であった久昌院の墓を領内久慈郡の瑞竜山に移す際に書いた「靖定夫人を追福競る諷誦文」には、「婦徳あり。族に睦び、侍婢を遇するに恵和。家に宜しく、室に宜しい」とあり、おそらく性行は温中であり、特に目立ったところのない静かな女性であったとされる。『新編鎌倉志』は、現在で言う観光ガイドブックの体を成し、元禄時代から、富士講、伊勢詣でに次ぐ鎌倉詣で人々の憧憬を誘った。現在の鎌倉観光ブームの火付け役は水戸光圀だったのかもしれない。  ―続く―