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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

鶴岡八幡宮の事

 そもそも、八幡大菩薩は、恐れ多くも、鶴岡(鶴岡八幡宮)に崇められる。石清水八幡宮の分霊を勧請して社を祀った事より、これを今日の若宮と称す。蘋繁(ひんぱん:浮草と白蓮の供え物)の礼、社壇(神を祀った社)に多く。幣(ぬさ:神事・祓いの際に紙・麻などを切って垂らした物)を行い、仁王の大きく優れた社である。その仏菩薩が仮に神として現れる三所に仲哀、神功、応仁の三天皇の玉体である。仏菩薩の本来の姿は、阿弥陀仏と観音、勢至の三菩薩で、神仏として三論宗の僧、行教和尚(大安寺別当)の三種の袈裟を着て現れた。それは百皇に鎮護の誓いを立てて、世の中が穏やかに治まることを望まれた。実にこれは、本国の天子の祖先を祀る霊屋(石清水八幡宮)として、源氏を守られるという。この世で安らかに暮らす事は、衆生を導く巧みな手段として、観音・勢至の守の力を受けられた。後の世に良い所に生まれる御利益は、阿弥陀仏の誓を施して得られる。天を見上げて信ずることは、最もこの神であった。父佐馬守(源義朝)の為に、勝長寿院を建立された。今の大御堂はこれである。その他、堂舎、塔婆を造立され、仏像経巻を崇め尊われた。罪ある者を討ち、罰を与える志ざしは早く速やかに行われ、良い果報をもたらす善い行いもまた、莫大であった。

 

 寿永二年九月四日、鎌倉に居ながら征夷大将軍の院宣を受けられ、建久元年十一月七日に上洛して大納言に就かれる。同じ年の十二月五日に右大将に任ぜられた。それにより、計略を隅々に張り巡らし、「実際に戦場に行く事無く、本営での巧みな戦略で、遠い戦場での勝利」を得た。実際に、遠くの伊豆国に流人とされた時に、このようになられるとは誰も思わなかった。一天四海(天下全体)を従えて靡(なび)かない草木も無かった。実に「史記」の言葉に、「天下安寧なる時は、刑を刑錯(けいさく:刑を適応することが無かった)用いず」とは、今こそ思い知らされる。平家が旺盛な時は、誰かがこの一門を滅ぼすと思ったか。そして、伊豆の御山にて夢物語のように、同じくそれを予見されて従い、功労を賞して官位を受けられた藤九郎盛長(安達盛長)は、上野の惣追捕使にされた。大庭景義は、若宮の別当、神人総官を賜り、さらに大庭御厨が、先祖から代々多くに別れたが、今回は一円を賜った。この他、荘園五六ヵ所を賜わり朝恩に誇った。

 それにしても、先年、河津三郎を討ち取った工藤一郎祐経は、左衛門尉になり、伊東を賜わる。その他、所領を多く拝領して、ずいぶん主君に気に入られ権威のある者になり、昼夜君(よりとも)の傍を去らずに祗候した。しかしながら傷を蒙る鳥は、天に上がれば翼を叩かれると言うが、また地に落ちると思う。釣り針を含む魚は、深い淵に入って尾を振ると言うが、ついには陸に上がりたいという思いになる。祐経もこの様に果報は、はなはだしく、公私共に、傍若無人に強情を張ると言うが、敵有る身で、行く末は逃れ難く、ついに討たれたことは無慙である。 

 

(ウィキペディアより引用 『曽我物語』)

※河津祐泰を討った工藤祐経の臣下である大見、八幡は、伊東祐親の次子である祐清等に討たれた。伊東祐親が、源頼朝を殺害しようと試みるが、祐清が頼朝にその事を告げて逃した。頼朝は北条と結びつき、治承・寿永の乱に向かう。一度は石橋山での戦いに敗れた頼朝は、すぐさま再起をかけて関東の源家従来の臣下をまとめて鎌倉を拠点として戻った。富士川の合戦に向かう中、伊東祐親が捕縛され、この物語では、その後に斬られている。頼朝にとって功ある祐清は、頼朝に臣下に加わるよう求められるが、父祐親の事もあり、頼朝から離れて平家の下に上がった。この二巻において伊東の家と、頼朝との関係の不可思議さと、確執が窺えてくる。そして事の運びは早く、『曽我物語』巻第二は、ここで終わる。続いて巻第三の曽我兄弟の幼少期が語られ、幼い曽我兄弟が成長していく姿と、仇討に掻き立てられる様相が描かれていく。そして、不忠人の伊藤祐親の孫として、頼朝の要請により鎌倉へ向かう。そこには、頼朝の末代まで仇となりえる幼い兄弟二人の斬首が待ち構えていた。 

―続く―