九月明月に一まん・はこわう父の事をなげきし事
九月十三夜の名月に、一万・筥王は庭に出て、父の事を思い嘆き悲しんだ。そもそも、伊豆国赤沢山の麓(ふもと)に、工藤左衛門尉祐経に討たれた河津三郎祐泰の子が二人いた。兄を一万と言い、五歳になり、弟は筥王と言い三歳になっていた。父と死に別れて、後に二人は、母に付いて、継父の曽我太郎祐信の下で育った。やがて成長するほどに、父の事が忘れずに嘆くことは残酷な事であった。人が父の仇である工藤祐経の事を語れば兄一万も知り、兄が語れば弟筥王も知る。恋しさのみが明け暮れて、積もるのは涙ばかりであった。物心が着くに従い、ますます忘れる事も無かった。
「我等兄弟が二十歳になり、父を討った左衛門尉(工藤祐経)と言う男を討ち取って、母の気持ち慰め、父の後世を弔おう」と、気忙しい月日となった。一人前の数に入らぬ小さな者も、日数が経てば現世においてもニ年が過ぎ、一万九つ、筥王七つになった。
折節、九月十三夜の、真に明月ながら、雲の無い月の光に兄弟は、庭に出て遊んでいたが、五つ連れあった雁が西に飛んでゆくのを一万が見て、
「あれを見てみよ、筥王。雲がなびいている中の雁は、何処を目指して飛んでいくのか。一列も離れない仲の良さが羨ましい」と言うと、弟筥王はそれを聞き、兄一万に語った。
「どうして羨ましいのですか。我らも遊び仲間、遊べばともに打ち連れて、帰れば共に帰ります」。
兄の一万がそれを聞き、
「そうではない、いずれも同じ鳥ならば、雁も鷺も連れだって行く。空を飛んでも、お前が友だけの事である。五つあるのは、一羽は父で、もう一羽が母である、そして三羽は子供であるだろう。お前は弟、我は兄、母は真の母であるが、曽我殿は真の父でなく、恋しいと思うその人の、居なくなったのは仇のせいだ」と答えると、筥王はそれを聞いて再び述べた。
「親の仇と言う者の首の骨は、石金より硬いものですか」と問えば、兄がそれを聞いて、袖で弟の口を押さえて言った。
「やかましい、人が聞いているかもしれない、声が大きいので隠すことだ」と。弟の筥王がそれを聞き、
「射殺すとも、首切るとも、隠していられようか」と、言う筥王に一万は答えた。
「そうではない。それまでの間、我慢するのが慣例いである。心の中で思い続け、うわべでは物を習えと。弓矢の技能は練習によるものである。我等の父は、弓矢の名主にて鹿も鳥も射る事が出来た。哀れ、父がおられれば、馬をも鞍をも用意して下さっただろう。そうであったなら、犬追い物・笠懸も習うことが出来た。我等より幼い者も、世間に認められた人は馬に乗り、物を射る。見るも羨ましいことだ」と説明を聞くと、筥王は、
「父がおられれば、自分の弓の弦を食いちぎった鼠の首は、射殺すべきものを。腹立たしい」と言うと、兄が聞いて、
「それよりも憎き者がいる」
「誰であるのか。自らが乗る竹馬に鞭を討つ事か」
「その事ではないぞ。父を討った者の憎さに、月日が経つのが遅い」と言えば、
「習わずとも、弓矢取る身が、弓を射ることは当然です」。兄が聞いてうち笑い、
「お前がそういう言うが、熟練しないでは、どうしようもない。射てみよ」と言って、竹の小弓に、矢柄は薄(すすき)の笹竹で作った矢をつがい、兄は、障子をあちらこちらに射通して、
「いつか我らが、十五・十三になった時、父の仇に出向き、この様に、心のままに射通して見せる」。筥王はそれを聞き、
「もっともな事ではありますが、大事の仇、弓に射るには如何かと思います。このように首を斬ります」と言って障子の紙を切りさき、高々と差し上げ、手に持った木太刀を取り直し、二つ三つに切り捨てて立つ姿の目つきは、人が変わった様に見えた。
※『曽我物語』第三巻に入り、幼少の兄弟の仇への思いと母の気持ちが描かれていく。そして頼朝の取って、その二人が不忠の孫である事から鎌倉に呼び出され処刑へと向かってゆく。ここに記載されるのは治承元年(1178)で、一万九歳、筥王七歳の事である。安元二年(1176)十月に一幡筥王の父河津祐泰が討たれ亡くなっており、一幡が五歳、筥王三歳であった。京都での鹿が谷の陰謀発覚が、この翌年の治承元年六月に起こった。また、通説では源頼朝が、この時期に北条政子と婚姻関係を結び、治承二年には長女大姫が生まれている。そして頼朝の挙兵が治承四年(1180)九月であり、曽我兄弟が藤の巻狩りで仇討を行ったのが建久四年(1196)五月のことであった。この時期の歴史背景を見ながら、『曽我物語』を読み取る事で、実に興味を抱かせてくれる事項が窺えてくるのも非常に面白く感じるだろう。 ―続く―





