第七番光触寺(こうそくじ) 聖観世音菩薩
光触寺は、滑川上流の十二所の奥の谷戸にたたずむ落ち着いた寺院であり、鎌倉三十三所観音霊場第七番札所である。趣のある山門を通り本堂まで伸びる石畳の両脇に新旧の墓標が立ち並び、他の寺院の景観と異なる。その奥に鎌倉らしき本堂があり、境内に一遍上人像が鎌倉地区の方を見つめている。鎌倉市には時宗の寺院として、光触寺、来迎寺(西御門)、教恩寺、別願寺、興福寺、来迎寺(材木座)、光照寺(山之内)の七寺が存在する。禅宗寺院や、日蓮宗寺院と比べ少ない。その時宗の寺院の中でも、光触寺は最も古く建立されたとされる。
光触寺はもともと真言宗の寺院であったが、作阿(さくあ)上人が一遍に帰依し、時宗に改めた寺院である。時宗の宗祖の一遍上人(1239から89)は、遊行証人と言われ、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた札を配り、それを受ければ救われるという(賦算)布教を行った。藤沢市にある清浄光寺は時宗の総本山で、特に遊行寺の名で知られている。
創建は弘安二年(1279)で、宗派:時宗。山号寺号:岩藏山光触寺。開会:一遍上人。開山:作阿上人。本尊:阿弥陀三尊像で中尊の阿弥陀如来像(運慶作)はとくに頬焼阿弥陀と呼ばれる。寺宝:本尊より古い定朝(じょうちょう)作の木像聖観音菩薩立像、元大慈寺本尊阿弥陀仏の仏頭、頬焼阿弥陀縁起絵巻、頬焼阿弥陀三尊画像(市文)。また、塩嘗め地蔵も有名であり、境内に安置されている。この寺院には本尊と塩嘗地蔵の二つの逸話が残されている。
頬焼阿弥陀の逸話は本尊阿弥陀三尊の内、中尊は頬焼阿弥陀と言われる。建保三年(1215)に鎌倉市中の町局 (まちつぼね)と言う女人の発願から、四十八日で阿弥陀様を作るように頼まれたのが仏師運慶である。期日通りに立派な仏像を作り上げた。町局には万才法師と言う信仰の厚い僧が仕えており、ある日、家の物が紛失した。万才法師が嫌疑を懸けられ捕らえられ、罪として左の頬に焼き印を押されたが、翌日には焼き印が消えており、何度やっても焼き跡が付かなかった。ある晩、町局は阿弥陀様が「我が頬を見よ」と告げる夢を見た。翌朝目覚めて本尊を拝むと、左頬にまぎれもなく焼き印の跡が付いており、阿弥陀様が罪もない法師の身代わりになったことを知り、法師を許した。焼け跡が出来た阿弥陀様の焼き印は、その後も仏師が修復しても消えなかったと言う。町局は後悔の念と有難さから出家し、その後、関係者は皆往生を遂げ、その逸話を描いた、『頬焼阿弥陀縁起絵巻』がある。生身仏信仰による身代わり譚(はなし)を考える上での重要な作品である。本尊阿弥陀三尊の作者が、『風土記稿』には「雲慶」と記載されている。また、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』に、法師を童女にした説話が記されている。
「塩嘗め地蔵」の逸話については、この金沢街道は鶴岡八幡宮から朝比奈切通しを超え、三浦半島の六浦港へ続く道で、鎌倉時代に六浦から塩を運んだ「塩の道」として知られた街道である。六浦の塩売りが鎌倉市中で商いをするために、この地を通り、この地蔵に塩を供えていた。しかし六浦に戻る際に塩が無くなっており、地蔵が塩をなめたと言う逸話が残されている。
光触寺には、鎌倉駅東口のバス停から、金沢八景・太刀洗行きのバスで、十二所で下車し、光触寺、明王院、浄明寺、報国寺と訪ねると便利である。ハイランド行きのバスには乗らないように。七月の晴れ間を見つけ、十一日に上記の寺を歩いた。昨年と比較し、今年は涼しく、この日も晴れた中ではあったが、それほど汗に悩ませられることなく歩く事が出来た。ほとんど観光で訪れる人も無く、近隣の人達が、墓参に参られるぐらいか、私の様な歴史好きや、寺社巡りが好きな人以外は訪れない。「頬焼阿弥陀」「塩嘗め地蔵」の逸話を知って窺うのも良いと思う。この日も、近隣の人が墓参に参られていた。本殿で手を合わせた後に、本殿横の柱に呼び林のボタンがあり、それを押して三十三観音の御朱印を依頼した。御住職が本殿の扉から出て来られ、御朱印帖を受け取ると、再び本殿に戻られ、ご朱印を描いていただいた。その後、御住職は本殿で御朱印に、経を捧げてもらい、その経と磬子(けいす)のボーンという音が聞こえてくる。そして本堂の扉が開き、手渡していただいた。志納は三百円と言われ、本当に御利益が有りそうな御朱印を頂いたことに感謝し、寺院を跡にし明王院へと向かった。 ―続く―







