鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』百七、あとがき | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

あとがき

 昨年の七月から一年がかりで、『曽我物語』の「仮名本」を現代訳してきた。ようやくそれを終えて、本願を達成する事が出来た。これも、読者がいた事が心の支えとなったことは間違いなく、本当に「いいね」を付けていただいた方々には、大変有難く思います。この『曽我物語』は、鎌倉中期に、女性の語り部の瞽女達により、曽我兄弟の仇討の話が広められたとされ、そこに虎御前の関与も示唆されている。鎌倉後期には、これらの話がまとめられ、「真名本(漢字のみの独自の漢文体により)」『曽我物語』十巻が成立されたとする。そして、南北朝・室町期に仇討の激情的展開に重きを置いた「仮名本」『曽我物語』十二巻が成立した。

「真名本」と「仮名本」の違いは、各巻において相異はあるが、特に最後の兄弟二人の百ヵ日追善供養後に、虎御前が出家した後からの記載が大きく異なっている。「真名本」では、兄弟の母と分れた虎は、十郎祐成の最期の地となった富士野の伊出の屋敷跡に向かう。「真名本」では、「仮名本」の翁の話は無く、その地を訪れた虎は、九月の十三夜の夜、二つの歌を詠み、この地を後にしている。そして「真名本」では、その後、熊野参詣、太子・太間・笠置の岩屋・吉野・粉河の寺を巡り、四天王寺に逗留して、七日間参籠を行った。その時、王藤内の妻も出家しており、この地で出会う。虎と同様に亡くなった王藤内を思い、諸国を巡礼していた。二人は身元を分かち合い、王藤内の妻が夫の亡くなった地を見せて欲しいと訴えて、二人で駿河を訪ねて、その後別れている。その後、再び箱根権現に参籠した後、五月十八日に兄弟二人の一周忌に、曽我に戻った。母は大そう喜び仏事は二十八日に取り行われ、その後十郎の従人道三郎(丹三郎)と鬼王丸は、髻を斬り出家し、山々寺々の修行に廻った。頼朝は虎の発心と、二人の下人の出家を聞いて、

「勇猛な武士に親しみ睦む者は、この様に決意することまで、普通ではないものだ」と改めて感心したという。供養が終わると再び虎は、善光寺に参り、そこで宿の女房と出会い、それが京の小次郎の妾であった事を知る。二人は意気投合し、十日ほど逗留した後に、二人は、もう二度と会う事のないと思う気持ちを歌に込めて別れた。その後、虎は関東の各地を巡礼し、三周忌に再び曽我へ戻り、その日に母御前、曽我祐信が出家した。虎は再び井出の館跡を訪ねる。この井出の地にて、鳥居、社が築かれており、虎はその髪を尋ねると、里人に聞くと、

「これは曽我十郎殿と五郎殿が富士郡六十六郡の御霊の神となられた」と告げられる。虎は七日七晩参籠し、その後、曽我では、頼朝は、念仏田と名付けて、土橋、中村、の公田六十六兆を大御堂に寄進したとされる。

  

(『曽我物語』「仮名本」。王堂本は校訂のみ。流布本は校訂、注訳)

 曽我祐信と母は、出家をし、この大御堂で一心不乱に念仏を唱えた。そして、正治元年(1199)己未の五月二十八日申の刻に曽我の女房は大往生を遂げ、曽我の入道と共に禅修尼(虎御前)が葬儀を行ったと記されている。その後、曽我入道も老年により病が重なり苦しむこと無く、往生を遂げたとある。禅修尼は益々仏道に専念して、大磯の母も呼び寄せて出家させ、共に念仏三昧の日を送ったとされる。そして昔、親しかった遊女たちも、心ある禅修尼を慕い出家を願い、仏道の戒律を守り、毎日極楽浄土のための法門を説き聞かせて、禅修尼を長老とする十二人の尼公たちと共に念仏を怠ることなく日々を過ごした。それに教えを乞う檀家も増え、また、三浦・鎌倉から布施をする檀家もたくさん集まった。そして、曽我一門以外にも、本間、渋谷、蛯名、二宮、松田、河村、土肥土屋、岡崎、渋美早川の人々も、自身の仏事を取り計らう際に曽我の大御堂に集まったとされる。兄弟の従者の道三郎、鬼王丸は、出家した後、各山々寺々を巡り、仏道修行を行っていたが、七回忌に曽我へ戻り、念仏勤行に励んでいたが、祐成、時致の兄弟の十三回忌の年、二月十八日の彼岸の中日に道三郎が亡くなり、その翌日の十九日に鬼王丸が亡くなったと記されている。そして禅修尼(虎御前)の最期は、真名本において、「その後はいよいよ虎は彌陀本願を慿みて年月を送りける程に、ある晩頃(くれつかた)に御堂の大門に立ち出でて、昔の事共を思ひ連(つづけ)けて涙を流す折節、庭の桜の本立斜めに小枝が下りたるを、十郎が姿とみなして、走り寄り取り付かむとすれども、只徒の木の枝なれば、低様(うづぶさま)に倒れけり。その時よりも病付ひて、少病少悩にして、生年六十六歳と申すに大往生をぞ棘にける」とある。非常に美しい情景を文章に記し、表現されている事に感銘を受ける。仮名本での少将御前との出会いと出家、そして共に庵での修業は、「真名本」では語られていない。法然の言葉の聴聞や十二巻に記される、仏道に関する唱導や十巻以降の個人の意思思考についての現代訳は、特に難しく、自身で何を記載しているのか分からない状態に陥っているが、この法然の聴聞の文章は、特に難しいが、私自身感銘を受ける一文であった。

 

(『曽我物語』真名本。左は校訂、注訳、現代訳。右は現代訳)

 この『曽我物語』は、「真名本」「仮名本」との比較において、多くは「真名本」が唱導的であると記されるが、両書を読んでみると、仏道、仏心、極楽浄土に祈願する念仏等の意味合いについての唱導的な一面は「仮名本」の方が多く感じると私は考える。また、「真名本」「仮名本」のどちらが素晴らしいかと優劣をつける事は意味をなさず、どちらとも素晴らしい日本の古典である。鎌倉末期に記された『曽我物語』「真名本」から、室町中期に成立したとされる「仮名本」。そして江戸期には、「仮名本をもとに、絵物語へと発展している。両書を読む事によって、両書の相違点を確認しながら、本文の意図を読み取る事を出来るだろう。そして何より、この中世の物語・文学により、この当時の、理、道理が一つの法の形をなし、しかしながら、全ての人々に寄与される現代法的な物ではなく、貴族、武士、僧、農民、商人、職人のそれぞれにおいて理、道理が異なっている事が理解されると思われる。本来の仇討となった原因は、曽我兄弟の祖父の伊東祐親にあるといわれ、現代の読者にとって曽我兄弟の仇討は逆恨みとも取らえられる事もある。しかし、元をたどれば、その伊東祐親の父祐家が早世して、祐親の祖父の工藤祐隆が、後妻の連れ子の祐継を養子として家督を継がせた事にある。本来血縁のない者が嫡子になる事は無い。この後妻の連れ子は女性で、祐隆が、その連れ子に産ませたのが祐継であるとも言われている。嫡孫である祐経にとっては、たまったものではない。しかしながら、工藤祐経も伯父の伊東祐親から所領を奪われ、祐親の娘の妻までもが、うばわれた身になれば、思う所もある。又、『曽我物語』の記事には、唯一八重姫・千鶴御前の事が記され、娘をはらませた伊東祐親の頼朝への敵愾心が窺われる。「真名本」では、その後、父祐親により八重姫は、江馬(北条庄に隣接する江馬庄)小四郎の妻にされ、子供を一人生んだと記され、源平合戦により平家が滅亡すると共に、江馬の小四郎も戦死して、壇の浦の戦いの後、この江馬庄を北条時政が賜り、次子の義時(江馬四郎・江馬小四郎)に譲り、八重姫の残した子を引き取り、育てたという。これ等の事が「真名本」で記され、さらにその子が北条泰時と記されている。フィクション性が高い物語として『曽我物語』を評価する者もいるが、鎌倉末期に成立した「真名本」において、只フィクション性が高いと捕らえて良い物かとも考える。後にニ代執権北条義時が亡くなった際に、北条政子は、正室の子である朝時頼ではなく、泰時の次期執権に多大な支持を示し擁立させた。北条政子は泰時の人間性を評価しながらも、政子にとっては、八重姫は叔母に当たり、より自身の血縁に近い泰時を支持したのではなかろうか。このような事から、『曽我物語』の中の人物を、読者が多彩に解釈することができ、中世の裏の歴史とも捉える事の面白味を感じる事が出来る。それが、それぞれの人々において異なる理、道理を読み取り、様々、理解されると思われる。

 

 中世においての『大鏡』『増鏡』『徒然草』『平家物語』『義経記』『太平記』等の文学は、その後の日本人の心情を形成されていく書物として捉える事が出来る。特に『平家物語』『曽我物語』は日本人の「あはれ」を、心の真髄として形成していき、後の作品に多大な影響を与えた文学であると私は捉える。

 仇討をされた工藤祐経の後の家系を辿ってみると、祐経の子犬房丸は、元服し伊東祐時と名乗り、父祐経の所領を受け継ぎ、鎌倉幕府御家人として職をなす。その子孫は日向国(現在の宮崎県)を拠点とする大名へ発展し、また東北や宮崎においても、工藤・伊東を名乗り、家系図や、寺の過去帳において祐経の末裔と伝える家系が現在も存在している。

『曽我物語』の現代訳に対し、お付き合いしていただきました読者の方々に対して、本当にありがとうございました。次は、古典の現代訳を少し離れて、再び鎌倉の寺院を少し回りたいと考えています。これからもよろしくお願いします。又、前回の配信を終えた直後、熊本で再び大きな地震があり、被災された方々が多くおられ、心より、お見舞い申し上げます。       ―了―