鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』九十七、母、虎を具して箱根へ登りし事、鬼の事らるる事 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

母、虎を具して箱根へ登りし事

 愛おしい言葉の余韻が残る寂し気な宿で、男女の睦まじい別れの余韻に浸りながら、悲しみに暮れ、別れた後にも二人の思い出が鮮明に残る場所である。起きる事もせず、寝る事も出来ずに物思いに、ふける所に、馬鞍を置いて引く使いが来て、木幡山(『拾遺集・雑恋・柿本人麻呂により「君を思えば」を引く詞)、君を思えば心から、上の空になってしまう。母も出て来られ、急ぎなさいと言われて、外に出た。たまたま通る道の辺で、故郷の曽我の里が遠くなって行けば、其処とも知らずに鞠子川(酒匂川。富士東麓より出て、現神奈川県小田原市内で相模湾に入る川名)まで来ると、蹴上(鞠の縁語)げて川を渡る。湯坂(現神奈川県足柄下郡箱根町。箱根頭部の尾根道。湯本から芦ノ湯を経て、二子山の北西を巡り、箱根権現に至る山道)の峠を登るにも、別れた十郎・五郎兄弟もこの道を、この様に、通い慣れたと思いつつ、梓で作った丸木の弓(狩猟・神事に使われる矢)が射たれた、矢立の杉を見上げて、二人が射た矢も、この木の枝に有るのだと思うと、梢の風も懐かしく、山路をはるばると行くと、箱根の坊に着いた。やがて、別当が出てこられてお会いし、

「それにしても、お嘆きの日数は、哀れであったでしょう」と仰せられれば、この二人は、仏事の本意を申された。別当は、虎御前を見られて、

「貴方は、何処からの客人でしょうか」と問うと、母は、ありのままに語られた。別当は有りがたき志ざしとして、墨染の袖を涙で濡らされた。少し経って、別当は涙を止められて仰せられるには、

「法師(私)の思いとて、貴方方には劣りません。盛りなる子を先に立たれた親、若かくして夫に先立たれた妻は、世の常に多いと申しますが、師に先立つ弟子は稀でございます。それも、先例に無い事ではございません。遠く中国を思えば、孔子の高弟の顔回は、第一の弟子でした。才知に並ぶ人がいないと言われましたが、二十五歳にて、師に先だち亡くなられた。我が国の慈覚大師円仁(第三世天台座主)は、天台太子の弟子でしたが、師よりも先立たれました。西方院の座主、院源僧正は、良院大徳に先立たれました。このような事を思い出して愚層の私一人が嘆いても仕方がございません。実に、非常に長い年月を経ても、会い見る事も無い別れの路に、嘆くのも道理でございます。嘆くべし、嘆くべし」と言って、御涙をはらはらと流された。

「思えば、誰かが劣る事のない思いですが、大磯の客人の御志ざしこそ、誠に有りがたく思います。会い構えて、深く御嘆きなされるな。これを真の善知識(人を仏道に導く高僧)として、他念なく悟りを得ようとする勤める心を起こされよ。仏の教えに耳を傾けて、一心に法に帰依し歓喜されますよう。この様に思い切って真の道に入られる事こそが、余念なくて行われる事です。仏も六年の間、阿私仙人に給・仕供敬して、法華を授けられました。心して、悪念を捨てられるよう。人々を討った人を恨めしいと思われれば、怒る事の妄執となって、輪廻の業を尽くされるでしょう。あながち、手を下して殺し、行って盗まなくとも、思えば、その咎を起こす事になります。心して、心して、殺生を志から除かれる事です。そうでなければ、五戒の第一に当たります。女は、特に深く思いこむ事で、三悪道に落ちて因果の報いが尽きない者となるでしょう。心して、心して」と、細やかに教えられた。

 

鬼の事らるる事

 「昔、天塾に、鬼子母神と言う鬼がいました。阿修羅王の妻でした。五百人の子を持ち、これを養おうとして、物の命を絶つ事、恒河沙(こうがしゃ:現在のガンジス川。その砂の様に数知れないさまをいう)の様でありました。特に親の愛する子を好み、取り食い、その罪は尽くしがたい物でした。仏はこれを悲しみ思われて、如何してこの殺生を止めさせようと知恵の第一の弟子の迦葉尊者に告げられました。迦葉は仏に申されるには、

「彼が五百人の持つこの中に、特に寵愛の子を御隠しなさいませ」と申し上げれば、仏は、

「その様にいたそう」と言って、五百人の末子を取り、御鉢の下に隠された。父母の鬼は、末子を探し回り、もとより、不思議な力を持っていて、どの様な事でも思いのままに出来る者で、無色界の四天あるうちの第四天(有頂天)、俗界に属する六つの天(四王天、忉利天、夜摩天、兜率天、楽変化天、他化自在天)の雲の上、下は須弥山を中心として、鉄囲山を外囲とする山と海の九山八海(仏教の世界観である少宇宙)、龍宮、奈落の底(地獄)までも、残す事なく探し回ったが、探し出す事は出来ません。鬼どもは力を失い、大地に伏して転び、泣き悲しむ事は愚かとしか言えない事でした。思いのあまりに、仏の所に参って申すには、

「我、五百人の子を待ちます。その中にも、末子こそ、特に不憫で、誰かに取られて失いました。あまりにも悲しく、あらゆる所を探し回りましたが、我等の神通では探し出す事も出来ないようです。出来ます事ならば、御慈悲をもって教えてください」と言って、嘆き悲しんで血の涙を流した。その時、仏が言うには、

「さて、子を失って探し探すのは、悲しいものか」と申されると、鬼は、

「申すには及びません。これだけでも出てくるのでしたら、我ら夫婦は、如何になろうとも、苦しくはございません。あまりにも可哀そうで」と申し上げれば、仏は、

「その様に、子は身に染みて愛おしい者である。汝、五百人の子を養うために、物の命を殺す事は、どの様に思うのか。その殺される物の中に、親もあり、子もあり、兄弟親類、どれ程の嘆きと思うか。思い知り、汝今、ただ一人を失っただけでも、この様に悲しむのだ。まして多くの人は、如何に思うか」と、お論しなさったので、鬼どもは、首を垂れて、周りを取り囲んで祗候いたしました。

 

仏はさらに、

「いかに汝らは、それでもやはり、生物の命を絶つつもりか。止めるのであれば、末子のいる所を知らせよう」と仰せになると、鬼は、大いに喜び、

「今より後は、殺生は致しません。失った末子のいる所を御教え下さい」と、謝罪して望みを申した。仏は、

「そうであるならば、固く殺生を止めよ」と約束をさせて、鬼に重ねて申すように言ったが、鬼は、

「我等の肉食を絶ってしまうと、生きていく事が出来ません。御慈悲の仏の衆生を教え導く手段を与えて下さい」と申した。仏は考えがあって、

「そうであれば、この世に生きるすべての物が用いる飯の上で、少し食事に際しては生飯(きは:食事に際して、少量の食物を少し取り分けて、鬼神・餓鬼・鳥獣などに施す物)を汝らに与えよう。それにて命を継ぐように」と、仏の御言葉があり、鬼は承って、

「我等は、悪行を招く一切の迷いの所業にて、身を作り固めているので、たとえ仏の勅言のように、頂戴申すとしても、肉食を止めてしまえば、命は有りません」と鬼が申すと、仏は、

「そうであるならば、一口の飯に、人の肉を擦り塗って与えよう」とお約束された。それが今に至り、生飯(きは)と言って、飯(いひ)の上を少し取って、掌(たなごころ:手のひら)にあてて置く事は、この謂れである。この様に硬く制約があり、御鉢の下より、小鬼を取り出された。その時、鬼が申すには、

「我らが、神通を超えた者であると思っていましたが、仏の方便(ほうべん:御慈悲の仏の衆生を教え導く手段)には及びがたく、まして、後世こそ恐ろしい」と言って、すなわち御弟子となり、仏道修行の成果として仏果を得られたと言われます。その上、法華守護神となり、『法華経』を仏菩薩の力で守ることを誓われました。

 

 そもそも、この鬼子母神は、容貌が美しく、帝釈天がこれを奪い取り、阿修羅王は、大いに怒り、怒りの猛火を放ち、既に須弥の半分まで攻め上り、戦う事、恒河沙(こうがしゃ:ガンジス川の無数の砂の様に)を経るとも尽きる事が無かった。その時、帝釈は善法堂(ぜんほうどう:忉利天の中にあると言われる帝釈天の喜見城〔善見城〕外の堂)に立て籠もり、『仁王経』(にんおうきょう:『仁王護国般若波羅密多経』の略。『金光明最勝王経』『法華経』と共に護国三部経とされる。この経を受持する事によって、災害を祓い、福をもたらすと信じられた)を講じつつ、四竪五横(ししゅごおう:九字の護身法。「臨、兵、闘、者、皆、陣(陳)、列、在、前」の九つの文字からなる呪文を唱えながら、空中に指先縦四本、横五本の線からなる符字を描く)の印を結ばれました。時に、虚空より盤石(ばんじゃく:大きな岩)雨のように降り下り、修羅の大敵を粉灰に打ち砕きました。しかしながら、業因尽きてしまえば、また蘇り、体躯を受けたと伝えられています。また、鬼子母は仏弟子となってので、苦悩を離れるのみならず、法華の功徳がありました。この様に鬼人でも、他人のなす事を見てこれに従い、喜びの心を生じると、この様に、仏果の縁が有ると言われます

※曽我物語第五巻の「帝釈と阿修羅の王戦いの事」で記されているが、『塵添壒嚢鈔』(じんてんあいのうしょう)十四・二に舎脂夫人と言う美女を巡って帝釈と羅喉阿修羅王とが争ったという話が見え本話と似ている。        ―続く―