鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』九十、巻第十、五郎、御前へ召し出され聞し召し問はるる事(一) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

五郎、御前へ召し出され聞し召し問はるる事

 御厩の下部、総追国光、五郎を預かり、既に厩の柱に縛り付けて、その夜は守り明かした。明ければ、

「大将殿(源頼朝)より尋ね聞きたい事がある。曽我五郎を連れてまいれ」との御使いがあったので小平次は、罪人を縛った縄を持って警固して参ると、母方の叔父、伊豆国住人の小川三郎祐定が申すには、

「如何に小平次、侍ほどの者に縄を付けずとも、共にまいられよ。山賊・海賊の輩ではないので、逃げていく事も無かろう。せめて、人であるゆえに。あまりにも思いやりがなく、ひどいではないか」と言うと、五郎はそれを聞き、

「誰一人の言葉も情けをかけていただくことも無いのに、御分の親切な心遣いが嬉しく思います。しかしながら、御分は、時致に親しき事が、皆に知られます。この様な身になって、親類は無用でございます。無益な配慮をして、人に聞かれれば、味方したと言われます。人の事をよく言う者はございません。時致は、盗み強盗はしていないので、太い縄を着けられても恥ではございません。これは、父の為に着いた縄なれば、『法華経の教養法恩赦禿頭争い』の銘文にてある紐です」と言って、何とも思わない表情をして、中庭に引き入れられた。

「今までにおいては、敵の為に捕らわれる者は、時致一人に限りません。殷の初代の王、殷王は夏台(河南省禹州にあった夏の牢獄)に囚われ、周の文王は羑里(ゆうり:河南省湯陰県の地名)捕らわれました。しかし、恥辱ではなかった」と言って、薄笑いを浮かべた。哀れと言わない者はいなかった。

 

(北鎌倉 東慶寺)

 五郎時致が、御前に参ると、君は御覧なされ、

「これが曽我の五郎と言う者か」と申されると、五郎は、

「私の事でございます」と言って、立ち上がったが、縄取りを宙に浮かせてぶら下げて見れば、警護の者共は狼藉であると、その身を引き押さえた。その時、相模国の住人の新開荒四郎実光、伊豆国住人、狩野介宗茂が座敷を立ち、

「申し上げる事があるならば、急ぎ申されよ」と言う。時致はそれを聞き、大きな眼を見開いて、彼らをはたとにらみ、

「見苦しいぞ、人々。御前が遠ければ、取次をしてもらおう。近ければ直接申します。その様な形で控えていると、訊問されて白状するものだ。問われる事によって答える事も答えられない。面々無駄な苦労になるから退き給え」と言って、あざ笑った。君が聞し召され、

「殊勝に申せ。各々は退き給え。頼朝が直接聞く」と、仰せ下された。そうして、五郎が居直り、顔を振り上げて、高らかに申すには、

「兄である十郎が、最期に申し置きました。我らの父が、祐経に討たれたその時から、年月とともに敵を狙う心の内を、どの様にお思いになされます。それについて、昨年君御上洛の時に、酒匂(さかは:現神奈川県小田原市内。古来より栄えた宿場町)の宿より付き従い、祐経がお供としていたのを、泊々に徘徊し、好機を窺っていましたが、 叶わず京に上洛され、四条の町にて、鉄の良い太刀を買い取り、夕べの夜半に、御前にて本意を遂げました。今は何かを思い残して、命も惜しいと思ってしまいます。御慈悲としては、今、ひと時も早く、首を刎ねて下さい」と申した。十郎は京へは上っていなかったが、箱根の別当に約束した故、太刀の出所を隠し、また、別当の罪過となると思って、この様に申した。君がそれを聞かれて、

「この太刀の出で所を隠そうとして申したのだな。さらに別当の咎にあらず。先祖重代の太刀は、箱根の御山に置かれた事は、かねてより伝え聞き、如何にして取り出したのかと思い、神社の什物(じゅうもつ:寺院で代々大切に伝えられてきた宝物や備品)である以上、力が及ぶものではなく、只今、頼朝の手に渡る事、ひとえに正八幡大菩薩の御計らいと思える。このような事が無くては、如何にして再び主になる事が出来たであろうか」と言って、自らの物として、錦の袋に入れ、大切に収められた。そして、御重宝の一つとなった。そして、代々伝わる事になったとか。少し経ち、君は仰せられるには、

「この事は、曽我の父母に知らせたのか」。五郎は承って、

「日本の大将軍の仰せども知らぬ事ですか。当代ならず、いずれの世でも、継子が悪事を企てようとした時、別れの挨拶をするに至って、『殊勝である。急ぎ間違った事をして、我惑い者になせ(居所の定まらない流浪の者になれ)』と言って、喜ぶ父がおられましょうか。又、母の慈悲は、山野の獣、江河の魚類までも、子を思う志の深い事は、父よりも母が優れていると申します。言はんや、人の世で生を受けて、二十歳余りの子供が、命を亡くそうとする事を、母に知らせ、『急ぎ死んで、物思わせよ』と言って、喜ぶ母はおられるでしょうか。ご推察下さい」と申した。

 

 君は、その言葉を聞き、

「さて、親しき者共にはどうした」と言われると、

「身は貧しく、世に居る人々に、この様な事を申す事は、ただ手を捧げて、これらを縛らせ、首を延べてこれを斬れと申す事です。誰かに頼れる物でしょうか。浅はかな仰せでしょう」と申した。頼朝は、もっともな事だと思われ、

「父母親類に至るまでも、子細なし。また、祐経は、伊豆より鎌倉へ数多く通っていたが、道にて狙わなかったのか」と尋ねると、五郎は、

「そうです。この四五ヶ年の間、足柄・箱根・湯本・国府津・酒匂・大磯・小磯・砥上原・唐土・相模川・懐島・八的ヶ原・腰越・稲村・由比浜・深沢辺りを徘徊し、野路・山路・宿々・泊々にて狙いましたが、敵の連れ立つ者は、四五十騎、少ない時も二三十騎で、我々は、連れ立った時は兄弟二人、連れざる時はただ一人、思いながらも空しく今までに時間がかかったのです」と、答えると、また、頼朝は、

「祐経は、敵であるのでは、やむを得ず。どうして頼朝や、それに付き従う何の関係もない侍たちを、多く斬ったのだ」と尋ねると、

「それこそ、理でございます。御所に参って、この様な狼藉を行うには千万騎にて行いますが、討ち漏らすまいと思う所に、小賢しく、『敵は何処にいるか』と尋ねる間、功には忠義を尽くし、忠には命を捨てるのが習い、殊勝に思い、『これにあり』と申す声に驚いて、足の立ち所も知らずに逃げ回る間、罪作りと思い、追って斬り殺すに及ばず、ただ、これっきりの打ち合いで傍にいて、その太刀に触れて傷つく者達がおりましょう。まさか顔に刀傷を負う事は無いでしょう。今すぐお呼びになって御覧下さい」と申したので、やがて、御使いとして呼び出され、申すように、面傷は無かった。その答えが、顔向けが出来ないように聞こえた。     ―続く―