十番斬りの事(二)
四番目には、遠江国の住人の原小次郎が五郎に斬られて引き退く。五番目に御所の近習の黒弥五と名乗って押し寄せ、十郎に追い立てられて、こめかみの辺りを斬られて引き退いた。六番目に伊勢国の住人の加藤弥太郎が攻めて来て、五郎が太刀を受けはずし、二の腕を斬り落とされて、引き退く。七番目に、駿河国の住人の船越八郎が押し寄せて、十郎に大腿の上部を斬られて引き退いた。八番目に信濃国の住人の海野小太郎幸氏と名乗って五郎に渡り会い、しばし戦うけれど、膝を割られて尻もちをついた姿で横たわった。九番目に、伊豆国の住人の宇田小四郎が押し寄せ、十郎と打ち合うが、首を打ち落とされて、二十七歳にて亡くなった。十番目に、日向国の住人の臼杵八郎が押し寄せ、五郎と渡り会い、顔面を真っ向に割られて、亡くなった。この次に、安房国の住人の安西弥七郎と名乗って、
「敵は何処にいるのだ」と立っていたが、十郎が討ち向かって、
「人々は優雅で勇敢であり、脇目も振らず、前だけを迎い、討死したのを見たであろう。遇人は銅(あかがね)をもって鏡とし、君子は友をもって鏡とする。退くな」と言って打ち合った。弥七も、さる者で
「とやかく言うまでもない」と、言い終わる前に、飛んで懸かった。十郎は、足を踏み違えて、横目で弥七を見て、がちんと音を立てて打つ。弥七は肩先より、鎧の後胴の先端と前道の上部を繋ぐ紐のはずれに、切っ先を撃ち込まれ、引き退いたと思われたが、その者もその夜の内に亡くなった。
調度その日は、五月の二十八日の夜で、暗黒のような暗さで、降る雨は車軸の様に音を立てていた。
「敵は何処にいるのだ」と言って、走り回っている所を、小柴柿に隠れて、出て来たところを斬っては、また景に引きこもり、向かう者をバタバタと斬る。斬られて退く者を後陣にて受け取り、味方する所もあった。二人の者共が、叫ぶには、
「武蔵・相模の気負った物は如何に行ったのか。これも重代の、これも重代と思う太刀と、刀の鉄の程を見せよ。敵は十人あるとも二十人いたとも、後日に申されるな。我ら兄弟二人だけだ。火を出せ。その灯にて名乗り会おう。道理に外れた者共か」と叫べば、御厩の舎人の時武(とくたけ)と言う者が唐笠に火をつけて投げ出した。これを見て、各屋形より、我等もそうしようと、雑人の蓑笠に火をつけて投げ出す。二千軒の屋形より、松明を出されれば、万灯会(懺悔や現在の為に、一万の灯明を転じて仏・菩薩に供養する法会)の様であり、白昼の様であった。彼ら二人は、甲冑を見に付けずに敵に打ち合おうと、走り回る有様は、小鷹の鳥に出会った様である。かかる所に、武蔵の国の住人の新開荒四郎と名乗りをかけて、進み出て申すには、
「敵は何十人もいる。某一人を超えていけ。出会え、対面せよ」と言い放った。十郎は打ち向かい、
「殊勝に聞こえる者か。『大将に変って使える者は、必ずその陣を破る』とは『文選』の言葉である。引くな」と言って、飛んで懸かる。立派な言葉に対して裏腹な行動を皮肉り、言葉の主の恥じを知らず、『御免有れ』と言って逃げるのを、十郎は容赦なく追いかけた。ほとんど逃げる所を亡くし、小柴垣を破って、尻を高く上げて犬のように這って逃げた。次に、甲斐の国の住人に市河党に、別当次郎が、進み出て申すには、
「いかなる愚か者でなければ、君の御前にて、この様な狼藉は致さない。名乗れ、聞こう」と言う。五郎が申すには、
「分かり切った事を、始めてであるかのように言うのは、ことさらわざとらしい。曽我の若者が、親の仇を討ちに来たのを幾度も言っているぞ。恐怖して耳が聞こえなくなったのか。親の仇は、陣の口を嫌わず(当時のことわざか。意味不明)。さて、この様に申すのは誰だ。聞こう」と言う。
「これは、甲斐国の住人の市河党の別当が大夫の次男、別当次郎定光」と答えた。
五郎はこれを聞いて、
「貴殿は、盗人(ぬすっと)よ。御坂・片山・都留・坂東に籠って、京・鎌倉に報ずる年貢物を警固の武士が少ない事を知り、遠矢にて射落とし、片山里の下種人(げすにん:下種徳人。身分が賤しいが金持ちである人)が抵抗してこない事を知り、夜討ちなどをして物を取る事は知っているが、恥ある侍が、寄り会い、晴の戦(いくさ)を行う事は、どういう事なのか知るべきである。今、時致に出会ったならば習え、それを教えよう」と言って、躍りかかって打つ太刀に、股の上を斬られて引き退く。これを始めとして、兄弟二人が手に掛けた者は、五十余人が斬られた。手負う者が三百八十余人となった。数多く出された松明も、一度に消えて、もとの闇となった。人は多くいたが、他の人々はこの光景を見て、ここかしこに群がるが、戦う者はいなかった。
※原小次郎は、『吾妻鏡』『原三郎』とあり、原は現静岡県掛川市内か。船越八郎は、現静岡県清水市内の住人。宇田小四郎は、『吾妻鏡』では討たれたものとして「宇田五郎」が記されているが、未詳である。武蔵の国の住人新開荒四郎は実光と後文に記され、新開は、現埼玉県深谷市新戒とされる。同地に新開荒次郎実重館跡が残り、『千葉上総系図』に土肥次郎実平の子として「実重(新開荒次郎)」とある。別当次郎は現山梨県西八代郡市川郷町とされ、その住人。別当次郎定光は、「真名本」では
別当次郎宗光とある。 ―続く―





