十郎祐成と五郎時致には、京の小次郎と言う、母が同じ兄がいた。小次郎は、母が河津殿に嫁ぐ前に、京の人と相馴(あいなれ)て、儲けた子である。十郎祐成は、五郎時致に
「小次郎を呼び寄せて、仲間に入れよう」と言うと、それ聞いた五郎は、
「大事な事なので、よくよく御配慮下され。同じ父母から生まれた兄ならば、どれほど臆病な者であろうと、罪科逃れ難く、同意するでしょう。しかし彼は異父兄です。どうしてためらい無しに、大事なお仇討の件を申されるのか。納得し難く思います。すぐに決めないで頂きたい。もしも、この件を聞き入れない時は、悪い事が起こるかもしれません。中国の江南の橘は、准北(中国安徽省)に移って、枳殻(からたち:ミカン科。原産地は長江流域)となりましたが、水土が異なったため枳殻になりました。隔てがあれば、たとえ兄弟であっても、用心すべきではないでしょうか」と申すと、十郎はそれを聞いて、
「しかしながら、その様な事は無い。男と言われるほどの者、姓が違い、他人であるとも、必ずや頼めば聞かない事は無い。まして母が同じ同腹の兄弟であり、どうして仲間に加えないでおられようか」と言った。
十郎祐成は、京の小次郎を呼び寄せて、三人は話し合った。
「かねてから、大方の事は知っておられよう。仇討ちを考えておる。だが、一期の大事であるので、ただ二人だけで遂げることは難しい。三人寄り合えば安心です」と十郎は申した。
小次郎はこれを聞き、ひどく驚いた。
「何を申しているか分かっておられるのか。今の世は、安定して栄えており、親の仇は数多くおるが、勝負を挑む事ではない。ただ上意(将軍の命令)は重く、肩を並べて、膝を汲むみ、対等に接する世の中である。これを恥じとも言わず、所領を持つ世の中だ。今は、その様な謀反を起こすような者を、優れて強い者とは言わず、痴れ者(愚か者)と申す。実に敵を目の当たりにして、顔を見るのも嫌だと申すならば、京に上り、どうにかして本所(領家の蔵人所)の末座に連なり、院(上皇・天皇)の御見参にも入り、冥加(神仏の加護)があれば、御機嫌を窺い、院宣・令旨(院宣は天皇が命令を下達する文書、令旨は皇太子、三后の命令を下達する文書)をも下申されて、鎌倉殿(源頼朝)に届けて、敵を本所に召し上げ、記録書にて問答し、敵を負かして、所領を我が物にすればよい事である。朝敵となっては叶わない。古人の言葉にも、『徳を持って人に勝つ者は栄え、力でもって人に勝つ者は、終には滅ぶ』と言われる。その上、あれほど果報を持った左衛門尉(工藤祐経)を、そなたらの力では、討つ事はとてもかない。止める事だ」と言い捨てて、座を立った。兄弟二人は小次郎に、この大事を聞かせたが、言葉にも掛けず、小次郎は座敷を荒々しくたって出て行き、あきれ果てた様子であった。
(北鎌倉 長寿寺)
少し経って五郎時致が申すには、
「そうであるからこそ、今は良い事はありません。日本一の卑怯者であるのかも。領地荘園の敵なれば、訴訟も致す。おかしな事を言う者だ。金を溶かすには火で、人を知るのは酒です。この者は、酒を飲めば余計な事を申す者です。これは大海の辺りの猩猩 (しょうじょう:架空の動物)は、酒に誘われて、血を絞られ、蒼海の崔は酒を好んで角を切られました。このような事を知りながら、申すとは、我等への侮辱である。きっと母や二宮太郎殿に話す事でしょう。それならば曽我殿に語られましょう。そして、祐経に知られ、逆に狙われる事、疑いありません。それほどに大事なのです。第一、上(源頼朝)が聞かれては、死罪流罪も行われ、命を落とすのは無慙です。ならば、この事が漏れる前に、小次郎の細首を打ち落として、九万八千の軍神の生贄(いけにえ)として、血祭りにしましょう。我らが討ったとは、誰が知りましょう」と言うと、十郎祐成がこれを聞いて、
「しかしながら、これほどの大事な要件、どうして漏らしたりしようか、いや、それは無い。罪の疑いは軽くして、功の疑いは重くせよと。喜ぶときは、みだりに功なき物を助け、怒る時は、みだりに無罪の者を殺す。これは大きな間違いです。仏も深く戒められている。心得なければならない」と言うと、五郎はそれを聞き、
「これは無罪を殺す事ではございません。このような卑怯者は有罪であっても、無罪であってもとも、言葉では言い尽くせないほどの奴です。急ぎ少しの時間を頂き始末しなければ」と申すと、
「いかにも、他人には、この様に言うべきである。これもただ、我等を世に居ろと思ってこそ言ったのだろうか、そうであるなら口止めしよう」と言って、後を追った。十郎は、追いついて、小次郎に
「ただ今言った事は軽い冗談である。まことしやかに人に語る事は無いように。もしその事が聞こえて来たならば、ひとえに貴殿が話したと思い、永く恨みます。くれぐれも」というと、小次郎は、
「承った」と言って去っていった。
※真名本によると、兄弟の母が河津三郎祐泰に嫁ぐ前に、国司代として京よりくだってきた源仲綱〔源朝政の子〕の乳母子左衛門尉なかなりを婿として設けた子とされる。仲成との間に一男一女をもうけており、その女は、相模国淘綾郡二宮(現神奈川県那賀郡二宮町)の住人で、中村党の二宮太郎朝忠に嫁いだ二宮御前である。 また男は、京の小次郎であった。
「金を溶かすには火だ。人を知るのは酒で(金を試みるは火なり。人を試みるは酒なり)」は、『壒嚢鈔(あいのうしょう)』六・三十七、『五常内義抄』に記述。「大海の辺りの猩猩は、酒に誘われて、血を絞られ、蒼海の崔は酒を好んで角を切られる」は、『宝物集』(三巻本)下に記述。『義経記』四・土佐坊義経の討手に上がる事に、「猩猩はちをおしむ、崔は角を惜しむ、日本の武士は名を惜しむ」とある。 ―続く―





