兄弟を母の制する事
一万と筥王が交わす二人の言葉に、乳母は隠れ見て、恐ろしい二人の企てではないかと思った。後には、どの様になる事かと思うと、急いで二人の兄弟の母親に語った。母はそれを聞いて、大いに驚き、彼ら二人を一室に呼び入れて、筥王は、居ずまいも糺さない内に、障子を破いた事で叱られると思い、
「私は障子を破いてはおりません。よその童が破いたのを乳母がたいそうに申したのです』と言うと、母は涙を流し、
「障子の事ではございません。筥王よ、しっかりと聞きなさい。お前たちの祖父伊東祐親と言う人は、将軍頼朝様の若君を殺したのみならず、謀反を行った故に斬られ、お前たちは、その孫であるため首を斬られてもしようがない。平家の公達等は、胎の内の子であっても、探して殺される。今より後は、決して仇討を考えたり、言い出したりしてはなりません。あさましい事です。いまだ将軍もお知りなっていないのか、お許しになって知らぬ顔をして、お尋ねにならないのかと思います。決して、遊んでも、門より外に出てはいけません。お前たちは、そろって遊ぶのを物陰から忍び見られて、勇み驕(おご)る時は、自らの心も共に勇ましいですが、二人が打ち萎れていくのを見た時は、私も心も共に萎れるもの。親もいない孤児の育つ行方は、あまりにも悲しいものであす。後ろに付き添って立って見るが良い。乳母は、この様な事は知らない。近くに寄りなさい」と言って、二人の袖を取って、引き寄せて小声で言うには、
「真に、こんなにも恐ろしい世の中で、悪事を思い立つのか。その様な事が、人に聞かれると良いのか。頼朝様のお耳に入れば、召し捕えられて、獄中に拘禁されて、死罪にもなりかねない。恐ろしい事です」と二人を制した。一万は、顔を赤らめ首がうなだれた。筥王は打ち笑い、
「乳母がそれらしいことを言うのだと思います。さらに話の後先も知らぬ事でございましょう」と申すと、母はそれを聞いて、
「今より後は、考える事すら止めよ。決して、決して」と言って、立ち去った。その後は、他人に見られないように気を付けて、密かに兄弟は語るけれど、人にはさらに知られる事は無かった。
ある日の手持無沙汰な時に、友の童もおらず、軒の松風が耳に留めると、暮れてしまおうとする日には、一万が門に出て人の目を忍び、さめざめと泣いた。筥王も同じく出てくるが、兄の顔をずっと見て、
「何を思えば、兄は向かいの山を見てそのように泣いているのだ」と言う。兄は、
「その事です。どういうわけか、事の他に父の面影を思い出して、恋しく思うのです」と言うと
「愚かにも思い出させる物ですね。どれほど思っても、父は帰られません。さあおいでなさいませ。童共が参るので、囃し詞の入った歌謡で遊びましょう」と言って連れ添って帰る時もあった。
また、ある夕暮れに、夜に近い軒端の雨の物哀れな時には、筥王は、門に立ち出て涙にむせぶ時は、一万が弟の袖を引き止めて、
「何を思ったか、四方の梢(こずゑ)に目をかけて、それほどまでに泣くのだ」と言うと筥王は、
「覚えていない父上とか言うお方の恋しさは、この様な物寂しくて心が動かされるのです。こんな時、兄はどの様にされるのですか」と言って、さめざめと泣きだした。一万は弟の手を取り、
「覚えていない知らぬ父を恋しいと思うよりも、愛おしいと仰せられる母の所に参りましょう」と言って、袖を引いて家に入った。これも人目を忍んで互いに諫め合って、心の内にしまい、表には出さないようにとするが、幼いながらの心であり、忍ぶために、よそ眼を隅々に漏れて見聞きする人々に、驚き恐れて、哀れを催さぬ人は無かった。良い竹は目を出した時からまっすぐであり、栴檀(せんだん:香木の白檀)は芽を出した時より良い香りがする。このような事が知られている。大成する者は、幼い時から人並外れた行いをするとの例えから、だから、ついに敵を思うままに討ち、名を天下全体に覆う雲にまで上げ、威勢は天下に余りうる。哀れにも、適切に、申し伝えたるには、この兄弟の事である。
源太、曽我へ兄弟召しの御使いに行きし事
こうして三年の春秋が過ぎるのも夢のようで、早くとも、兄一万は十一歳、弟筥王は九歳になっていた。その頃、彼らが身の上に、思わぬ不思議な事があった。理由を何かと尋ねてみると、鎌倉殿(源頼朝)の侍どもに仰せられたのは、
「保元の合戦で、為義は、子の義朝に斬られ、平治の乱に義朝、長田に討たれた時より今まで、驕れる平家をことごとく滅ぼし、天下を心のままにする事、我らが先祖においては、頼朝にまさる果報者は無い」と仰せられると、御前への祗候の侍ども一同が、
「さようでございます」と申し上げると、伊豆国の住人工藤左衛門祐経は、畏まって申したのは、
「仰せの如く、天下が静まり日本国中に戦いが無いため狼煙立たない所の、間近の直ぐ膝元において、幼いと言えども今後の敵となる者こそ一人二人居ります」と申した。御前にいる侍どもが、誰の子息かと目を見あわせ、緊張して拳を握らない者はいなかった。頼朝はそれを聞いて、顔色を変えて、
「頼朝も知らない、何者だ」とお尋ねがあり、祐経は、
「先年お斬りになられた、伊東入道祐親の孫、五歳と三歳になり、亡き父河津祐泰の亡き後に、継父曽我太郎祐信の下に養われています。成人の後に、御敵となりましょう。わが身に対してもまた、良くない企みがある者です」と申し上げれば頼朝が聞き、
「不思議である。祐信は、ずいぶん心優しい者に思えるが、後の敵を養う事は不思議である。急ぎ梶原源太景季(梶原景時の長子)を呼び出せ」と申された。
梶原源太景季が御前に畏(かしこ)まりると、頼朝は、
「急ぎ曽我へ下り、伊東入道が孫どもを隠し置く理由を聞け。急いで家来を伴って参れ、もし仰せに従わず、反意の意思を示したならば、それにて首を刎ねよ」と仰せられた。景季は承り、御前を罷り立ち、急いで曽我へ向かった。祐信の屋敷もが近くなると、使者を立てて、
「曽我殿お邪魔する。君のお使いにて、景季が参りました」と言うと、祐信は何事かと思い、
「思いもよらず、来られて、珍しい」と言うと、景季も、
「さようでございます、将軍頼朝様の使いで」とだけ言って、面目も無い事で、左右無く言い出せず少したってから、
「貴殿にとってあまり良くない事を仰せられた。その理由は亡き伊東入道殿の孫を養育していることが頼朝様に聞えて『頼朝の後の仇となる。急ぎ連れてまいれ』との御使いを蒙り参りました」と申すと、祐信はこれと言った返事が出来ずに少したって、
「世間に歎き深き者を尋ねるのは、祐信に勝る者はおらず。幼い者二人でありますが、五歳と三歳にて失い、その思いは未だに晴れずにおりました。彼らの母に一通りでない悲しみは浅くはなく、先だちました。彼等二人の母も、夫に先立たれて、子を持っていることを聞きました。しかも親しい上、亡くなった子供も同じ年だったので、そうであるなら人の嘆きをも、我等の思いも、語り慰めると思い、この家に迎い入れました次第でございます。今年は、この者共は、十一歳と九歳になります。ことの他殊勝で、実子のように養っており、この頃にこのような仰せを蒙るなど思われませんでした。子に縁が無い者は、人の子をも養うことは出来ないのでしょうか」と言って、袖を顔に押し当てた。景季も、まことに道理であると思った。 ―続くー