鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』二十一、伊東きられし事、奈良の勤僧正(ごんそうじょう)の事  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

伊東きられし事

 そうして、不忠を振舞った伊東入道は、生け捕られて、婿の三浦介義澄に預けられた。先日の罪科は逃れ難く、召しだされて鎧摺(よろいずる:現神奈川県三浦郡葉山町)と言う所にて首をはねられた。最期の死に際に阿弥陀仏の名号を十回唱える十念する事も及ばず、極楽浄土に行く願いもかなわず、先祖相伝の所領、伊東・河津の方を見て、物事に執着して心が離れずに思いいれる事こそ無慙であった。

 

奈良の勤僧正(ごんそうじょう)の事

 延暦年間(782~806年)に、奈良の勤僧正は、大日照の雨乞いの祈りのため大和国の布留社(ふるのやしろ:現奈良県天理市布留町の石上神社)において、仏法を雨に喩えて修生の成仏を説く、『法華経』の薬草喩品第五を十七日の間、説教された。何処ともなく、童子一人がやって来て、毎日の御経を聴聞していた。七日の期限に達する時

「何者である」と尋ねると、 

「我はこの山の青龍(小竜)である。七日の聴聞によって、極楽浄土に生まれるようなうれしさである」

と言って、心からありがたく思って随喜の涙を流された。その時に僧正が言う。

「龍は、雨を思いのままに扱われます、雨を降らしてください」と頼んだ。清流は、

「大竜王の許し無くては、我の計らいで、行う事は出来ないが、しかしながら死後に成仏の果を得る後生菩薩をお助けできるなら、身を失うとも雨を降らせてみよう」と申された。

「とやかく言う間でも無く、死者の冥福を祈って仏事を営みます」と御承諾になったので、即座に雷となって天に上り、雨を二時間程降らせた。しかしながらこの龍は、その身が砕けて五所に落ちてしまい、僧正は哀れんで、この龍の落ちたところに追善供養として『法華経』を一日で書写された。その後、この僧正の夢に、

「その追善により、即座に蛇身を転じて仏道に乗じた」と見えた。そうして、この五所に寺を建てて、今も絶えずに勤行が怠らず続けられていると聞く。この五箇所の寺は今もあると言われ、寺号は龍門寺、龍禅寺、龍食寺、龍宝寺、龍尊寺がこれである。紀ノ國・大和両国にある。

 

 このような畜類にも後生を願うのである。この伊東入道は、最期の時にも後生菩薩を願わなかったのは愚かである。これを以て過ぎた事を考えると、親の譲りを背くのみならず、正真正銘の兄を調伏し、持ってはならない所領を横領した故に、天はこれを戒めたと思える。それゆえ、悪事が通用するのは一時的な事であり、勝利はしても、結局は正義にはかなわので、正直に道理を行う事だ。全体的に、頼朝に敵対した者は多くいるが、まの辺りに誅罰されるという、原因となる因果を逃れる理を思えば、昔、天竺に大王がおり、尊き上人に帰依しようとして、国々を訪ね回った。ある時に、立派な上人がいると、迎いを遣わしたが、この大王は、朝夕碁を好み、臣下を集めて碁を打っていた時に、

「上人参りました」と申したが、碁にて相手の石と石との繋ぎを切る所であり、大王は、

「切れ」と言ったので、供だって来た臣下が、この上人の首を斬れとの宣旨と思い聞いてしまい、この上人の首を斬ってしまった。大王は夢にも知らず碁を打ち終えた後、

「その上人ここへ」と言われた。臣下は、

「宣旨に任せて、斬りました」と言う。大王は、大変悲しみ、仏に歎いた時、仏は述べられた。

「昔、国王は、蛙であり土中にいた。上人は、元は田を作る農夫であり、春に田を耕し、不本意ながら、唐鍬で蛙の首をすき斬った。その因果に逃れられずに斬られてしまったのである。因果は、この様なものである」と述べられれば、国王は、未来の因果を悲しんで、多くの心ざしを尽くして、この苦を免れたとか。人は、ただ因果の応報の報いを知らなくてはならない。

 

『吾妻鏡』寿永元年(1182)二月十四日条に、伊東祐親が、頼朝の恩權を聞いて自殺した事が記載されている、

「伊東二郎祐親法師は去々年の治承四年以後、召して三浦介義澄に預けられていた。ところが御台所(北条政子)が御懐妊と言う噂があったので、義澄は機会を得て、何度もご機嫌を伺ったところ、(頼朝が)御前に召し直後に恩赦すると仰られた。義澄はこの事を伊東祐親に伝え、祐親は参上するとの事を申したので、義澄が御所で待っていところ、郎従が走って来て、『禅門(伊東祐親)は今の(頼朝の)恩赦を聞き、改めて以前の行いを恥じると言い、直ぐに自害を企てました。ただ今、僅か一瞬の間の事でした。』と言った。義澄は走って行ったが死体はすでに片付けられていたという」。

『曽我物語』は、伝記物語であり、『吾妻鏡』は北条得宗家・鎌倉幕府が編纂した歴史書である。しかしながら、伝記物語が事実ではなく創作であるとするのも考え物である。また歴史書として正しい事象を記載しているとも考えるのは早計である。『曽我物語』と『吾妻鏡』の記している同一の内容は、伊東祐親が捕縛された後に婿の三浦介義澄に預けられた事。違う点は処刑と自害という事である。

 

 伊東祐親が捕らえられたのは、治承四年(1180)富士川の戦いで十月十九日に捕らえられ、富士川の合戦に参加するために、船で渡ろうとしていたところ捕縛され、娘婿の三浦義澄に預けられた。三浦義澄の妻室は祐親の娘で、この時にも、義澄の妻室も生存しており、外孫として義村と胤義がいる。また北条時政の先妻も伊東祐親の娘とされ、外孫として北条政子や、後の二代執権の北条義時がおり、両者外孫を有していた。そして、何故三浦義澄に預けられたのかと推測すると、第一に勢力的に北条よりも三浦方の家格が上であった点。経済的な負担と、それに適する館・邸が無かったとも考えられる。第二に祐親の娘が生存していた点。第三に石橋山の戦いで、北条時政の嫡子宗時が討たれており、頼朝討伐勢に祐親がいた事で憎悪関係があったとも考えられる。

『吾妻鏡』の恩赦については、実際に後の同年八月十二日に頼朝の嫡子頼家が生まれた事から、伊東祐親が自害したとされる時には、北条政子が懐妊していた事は事実である。神仏に信仰が篤かった頼朝が、自身の子が生まれる際に、妻室政子の外祖父、そして生まれる子の外曾祖父を処刑するだろうか。しかし、当時の武士の思想と、頼朝の追い立ちと流人としての思考を読み取ることは複雑で困難である。実際に石橋山での戦いで頼朝を苦境に追い詰めた主犯としては、大庭景親が挙げられ、治承四年の十月二十日の富士川の戦いに参加し、平家が戦わずして敗走した後、二十三日に景親は降伏し、上総広常に預けられて、三日後の二十六日に固瀬川(現神奈川県藤沢市片瀬)で斬首された。大庭景親には、兄である大庭景義が存在しており、後の鎌倉幕府において初期の重鎮として取り扱われている点から見て、その斬首は重いものであった。

 

(鎌倉源氏山 源頼朝像、 静岡伊東市大原物見塚公園 伊東祐親像)

 『吾妻鏡』の頼朝からの祐親の恩赦の文を確認すると、「義澄が御所で待っていところ、郎従が走って来て、『禅門(伊東祐親)は今の(頼朝の)恩赦を聞き、改めて以前の行いを恥じると言い、直ぐに自害を企てました。ただ今、僅か一瞬の間の事でした。』と言った。義澄は走って行ったが、死体はすでに片付けられていたという」と記され、非常に違和感を覚える。事実関係から見て、特に伊東祐親に関して『吾妻鏡』で、詳しく取り上げる必要はなかったのではないかと考えるが、細く説明的に記されていることが疑問に思う。『曽我物語』では、物語の性質上において、自死よりも斬首の方が「因果応報」と言う仏教的な説話に基づく記述が成り立ち、簡潔に記す事で、物語の本質にずれが生じない事も考えられる。しかし『吾妻鏡』の記述の「(頼朝の)恩赦を聞き、改めて以前の行いを恥じると言い、直ぐに自害を企てました。」と記され、外孫である北条政子の懐妊と生まれる外曾孫にとって自死を選ぶことが、最も吉凶を好んだ時代において、頼朝への効果的な逆襲であったのではないかとも考えられる。また、「義澄は走って行ったが死体はすでに片付けられていたという」この点において、頼朝の恩赦を与えながら始末したとも考えられる。とりわけ、この審議を明確にするには、それを補える資料が存在しないため証明は出来ない。しかし、先ほどの伊東祐親の頼朝への逆襲であるならば、そこに祐親の執念が見え、いかに重大な執念であったかを考えさせている。その執念に対しては、次に語る「祐清、京へ上る事」での補足で、説明したい。   ―続く―

 

(鎌倉鶴岡八幡具 二の鳥居 三の鳥居)