景義が夢合わせの事
大庭景義が不思議な霊験の吉兆を占い、申すには、
「盛長が神仏の不思議な霊験を現わした事において、まず、君は矢倉嶽に居られたのは御先祖の八幡殿(源義家)の御子孫で、東八カ国(相模・武蔵・安房・上総・常陸・上野・下野国)を御屋敷所(勢力の根拠地)とされた。酒を飲まれたと見るのは当然のこと。当時の君の有様は不覚・無明(正常な心を乱す)の酒に酔われておられるような者であった。しかしながら、酔いは何時か醒めるもので『三寸(みき:お神酒)』の三文字を現わし、近くは三月、遠くは三年で、酔いが覚める」と申した。
酒の事
景義がかさねて申したのは、
「また、酒は心配事を忘れさせる忘憂の徳があり、数の異名がある。中でも、『三木(みき:神酒)』と申す事は、昔、漢の明帝の時代に、三年間の旱魃(かんばつ)があり、水に飢えて人々の多くが死んだ。帝は大いに嘆かれ、天に祈ったが、雨の降る兆しはなかった。どうしようかと悲しまれていると、その国の傍らに、石祚(せきそ:不詳)と言う賤しき民がおり、彼が家の庭園に桑の木三本があった。水鳥が常に下りてきて遊んでいて、主が怪しく思いって行ってみれば、この木は内部が空になっている処に竹の葉で覆っている物があった。取り除いて見てみると、水であり、舐めてみれば美酒であった。すなわち、これを取り出して、国王に捧げると、この美酒を一度口に含めば七日の間は、飢えるのを忘れさせる徳があった。帝は、感じ思って、水鳥の落とした羽を取り、飢えて死ぬ者の口に注ぐ、死人はことごとく生き返り、飢えている者は、力を得て、良かったと言うばかりであった。すなわち石祚を召して、一国の守に任じた。桑の木三本より出で来たので、『三木』と申すのである。さても、この酒は、どうして出できたのかと尋ねると、石祚の子である荒里(くわうり:未詳)と言う者がいた。継母を殊に荒里が優れていた事を恨み、食べ物に毒を入れて食べさせようとした。しかしながら、荒里は継母が行うことを予見し、さらに恨む心を押し払い、この木の内部の空洞になったところに毒の入った食べ物を入れ置いて、竹の葉で覆って入れておいた。初めに入れた物は、麴(こうじ)となり、後に入れた米は、天より下る雨露の恵みを受けて、美酒となった。『毒薬変じて薬となる』とは、この時の言葉である。また酒を飲んで、風邪は去る事『三寸(みき)』なれば(酒飲みぬれは、風邪この身に三寸近づかす)、『三寸』とも書かれる。これは家隆卿(藤原家隆:鎌倉紀初期の歌人『新古今集』の撰者の一人)の言われた事である。馬の大きさを示す場合、四尺を基準として、それを超えた場合に何寸を『き』と言うのはその由縁である。また防風とも言われ、『毘沙門堂本古今集注』に「風防と伝名あり。これは、酒を飲めば風邪に冒されぬ故なり」とある。
またある者の家に杉が三本あり、その木にしたたり、岩の上に落ち貯まり、酒となる風説がある。その時は、『三木』と書くべきである。また、『医心方』が曰く『新酒百薬の長』たりとも書く。『漢書』には、「石祚、幹を得て、天命をタスク」と書いてある。また、周の穆王(ぼくおう)に仕え、菊の露を飲んで不老長寿になった仙童の慈童(菊慈童)と言う者は、七百歳を経て、帝顓頊(泉頊)の玄孫の彭祖(ほうそ)と名を変えた仙人で、『菊水』として飲まれたのはこの酒である。これは『法華経』の第二十五品の「観世音菩薩普門品」の最期の二句(歌謡菊慈童)が菊の葉に記されていたとされる故に、菊の下行く水、不死の薬であることで、この仙人が用いたからである。朝廷にも、これを写して陰暦九月九日の重陽の節句の宴において、酒に菊を入れて用いられる。上より下される雨露の恵み、下に差し来る月日の光、あまねく君の御恵みに漏れたる品は無く、高き人も身分の低い者も、酒は祝いに優れ、神も納受し、仏も憐愍(れんみん)あるとか。
君もお聞きなされる御酒(みき)の如くに、直ぐに、愁いを忘れさせて、日本国を従えさせる。左右の御足にて外浜と喜界島を踏まれたのは、秋津洲に残される事無く舌が居させられた。左右の御袂に月日を宿されるのは、主上・上皇の御後見においては、疑いない事である。小松三本頭に頂きくには、八万三所の擁護を新たにして、千秋万歳(先年万年長久を祝する言葉)を保たれる御吉兆である。また南向きに歩まれるには、主上御在位の時、大極殿の南面にして、天子の御位を踏まれる事こそうけたまわられる。君の御運を開かれる事はこれと同じ」と申されると、佐殿は喜ばれた。
「景義が夢見を合わせる事、頼朝が、世に出る事があれば、夢合わせの返答をしよう」と仰せられた。
頼朝謀反の事
そうこうしているうちに、兵衛佐頼朝は、天下を掌握しようといよいよ思い立てられたのは、度々の御瑞相(ずいそう:吉兆を現わす様相)等を多く現れたので、終に謀反のことを思い立たれた。特に世間の有様を見ると、例えば去る平治の乱に、右衛門守藤原信頼卿は、左馬守源義朝と会いそろって、梟悪(きょうあく:人の道に背く)な企てをおこない、平清盛がこれを討伐し、画策に加わった凶徒を流罪に処してから今日、源氏は衰退し、平家が繁栄した。そうした事で朝廷の恩意にあずかるだけで、天皇の御意向を悩ました事は古今に類が無い。そのうえ、その後は天皇のお手本世なるように振舞わず、恐れ多くも太政大臣の位を汚した。このような事で、近衛の大将である平重盛、宗盛兄弟が左右に並んだ事、凡人においては先例が無いと言い、初めてこの儀を破る。また、寺院に寄進された田園を止めて、神社に寄進された土地を覆し、我が国六十余州の内三十四カ国は、この一族が知行している。また、太政大臣、左大臣、右大臣の三公に就く九卿の位を、宮中を天、天子を日、公卿を月にたとえた「月卿雲客」の官職は、たいていこの一門が就いた。このような驕りの誤りに、多くの罪過を行い、治承三年の平清盛が京都に軍勢を率いて制圧した政変は、さしあたる罪過もなく、その上法皇を鳥羽殿に押し込めて、天下をわが物とした。よくよく旧記を思い返すと、楊貴妃の従兄弟に当たる楊国忠が、天子の意向に背き、安禄山朝廷の掟を乱した悪行も、この様な事は無かった。人臣王事を奪う他は、このほどの悪行は、異国にも未だ先例は聞かされていない。言うに及ばず我が国においてのことである。それによって、後白河院の第二皇子の高倉宮は、源氏の三位入道(源頼政)より進められた謀反を行われた。治承四年四月二十四日の夜明け前、諸国の源氏に令旨を下され、御使いは十郎蔵人行家であった。同じ五月八日に、行家は、伊豆国に着き、兵衛佐殿(源頼朝)に令旨を告げ、令旨の内容を書きうつして常陸の国に下る。源為義の十男志田太郎先生義憲にこの内容を告げて信濃国に下り、木曽義仲にも見せられた。これにより、国々の源氏は謀叛を企てて、思い思いに案をめぐらす所に、平家の郎党が国々に多かったため令次の内容は伝え聞かれた。ここに平家の侍に和泉の判官兼高が、東国の目代として山木の館にいるのを、夜討ちすべしと、同じく八月十七日の夜に、北条時政倭文子を始めとし、佐々木四郎高綱、伊勢の加藤氏影等位下の郎従を差し遣わせて、兼隆を討ち取った。これが合戦の初めである。 ―続く―