両統迭立により、天皇の継承は、九十代亀山天皇から皇子の九十一代後宇多天皇(大覚寺派)に、九十二代伏見天皇(持明院統)で、皇子の九十三代後伏見に継承され、その後は九十四代後二条天皇が(大覚寺統)に譲位され、再び九十五代花園天王(持明院統)となる。そして九十六代後醍醐天皇(大覚寺統)と譲位された。この南朝大覚寺統と北朝持明院統の両統迭立の確執が、鎌倉末期から鎌倉幕府の滅亡の元弘の乱、南北朝の争乱をへて後南朝まで続く二百年にわたる大乱の源となる。その確執は、公卿の派閥争いと鎌倉幕府の優柔不断な対応にも起因した。『神皇正統記』は、これらの皇位継承に基づき、後嵯峨院からの継承に南朝大覚寺統の正統性を説いている。
『神皇正統記』は、また結城親朝等の有力な東国武士を南朝へ勧誘するために描かれたという説もある。日本の歴史を既存の歴史書『日本書紀』よりも武士に読みやすく解りやすく簡潔・明瞭に記して、東国の有力武士であった結城宗広(親朝の父)や結城親光(親朝の弟)の南朝への忠誠心を褒め称える事で結城親朝等を自派へ引き込もうとしたとされる。そして著者の北畠親房は『神皇正統記』の中で、「善とは何か」、「そしてそれをいかにして実践すべきか」を求めて自己との対話を行った哲学書であるとした説もある。倫理学・日本倫理思想史家の窪田高明氏は、『神皇正統記』において、君主に対しての政治の心構えを説くと事を述べた文の後に、唐突に人臣側の弁えを語る文が続くなど、対象が二転三転していることを挙げ、高名な学者・著作者としての親房が、これを意識するわけがなく誰に描いたのか一貫した解釈が出来ない事は、自問自答を行ったと解釈する方が妥当であると述べている。すなわち、親房が南朝側に付き従うことへの自身の正統性についても記した哲学書とも考えられる。また窪田氏の主張は、「善」と「正統」と言う哲学的命題を親房自身に問いかけた哲学書の問題に対し、静的な現在の「善」は、儒学の有徳君主論により現在の秩序が徳により維持され、保証されることが出来る。そして親房は、過去から現在の「善」の持続は天照大神の神勅や三種の神器などの神道の論理によって保障されたとしている。しかし現在から未来に対しての動的な「善」に対しては、「持続する現在」という善を表現することが出来ず、常に消滅の危機であるとした。「持続する現在」は、書物という固定的媒体とは本質的に相いれないものであるとし、『神皇正統記』の矛盾や混乱が見られるのはそこに求められるという。未来への善の持続性は、存在そのものに対する問であり、そこに何らかの原理があるとしてもそれは堅固に対しては表現できないと。したがって、思策者にして行動者である親房が、「原理として語りえない物を自らの生を通して表現」しようとしたのではないかという。
明徳三年十月二十七日に、南北朝期の南朝と北朝(室町幕府)での内乱の和議と皇位継承について締結された「明徳の和約」後、北朝正統論を唱える室町幕府は続編としながら親房の論を否定する官人の壬生晴富によって『続神皇正統記』が書かれた。しかし、戦国期を経て江戸期に入ると水戸光圀は、『大日本史』で親房の主張を高く評価しており、幕府内においても北条泰時の例を引用し、「武家により徳治政治」の正当性を導く意見が現れている。また『神皇正統記』は水戸学と結びつき、後の皇国史観にも影響を与えることとなった。しかし明治に入り、逆に国粋主義の立場から儒教や仏教を異端視していた伊勢神道の影響を受けすぎているという事から、重訂という名の改竄(かいさん:文書、記録等の全部又は一部が、本来なされるべきでない時期に、本来なされるべきでない形式や内容などに変更されること、すること)を行い、の親房思想の否定を行ったが定着せず、戦後に現実政治から切り離された国学を含め『神皇正統記』研究が盛んになった。
余談であるが、この様に『神皇正統記』を読むと、同じ帝王学の書として捉えた場合に、西欧の中世のイタリアで著され、1532年に刊行されたマキャブェッリの『君主論』を思い出す。当時キリスト教における禁書として扱われ、現在では現実主義的な古典として評価されている。歴史上の様々な君主及び君主国を分析し、君主とはどうあるべきか、また君主としてどのように権力を獲得し、保持し続けるにはどのような徳よりも力(力量:ブィツトゥ)が必要かなどかを論じている。
『神皇正統記』と『君主論』を比較することは容易ではないが、『神皇正統記』は宗教的・倫理的に用いながら、君主が徳による政治に重点を充てている事に興味を抱く。しかし『君主論』は、万民に君主とは何かと説き、徳よりも力を重視し、民衆の支持を得るには恩恵を与えるだけでは無く、恐怖心を与えることも必要と記している。必要であれば道徳に反する行動も辞さないとし、君主による恐怖政治および、その使用例や内容、そしてその活用方法などが、具体的に記された。この『君主論』を読むと、後に日本での戦国期に入る織田信長の統治思想、その思想を継承しながら政治形態を改善する豊臣秀吉、そして君主・当事者として完成形を極めた徳川家康を連想することに非常に考え深い。
私自身、『神皇正統記』は日本人の宗教的・倫理的に生善説による帝王学の書として捉えられ、『君主論』宗教的・倫理的に性悪説により記されていると思われるが、現実的に信長・秀吉、家康とも『君主論』的思想により統治された。しかし現在も続く皇室は、天皇としての政治的活動の放棄をおこない、憲法による日本国の象徴として、存在意義を有し、国民からも慕われ、尊敬されている。これは『神皇正統記』による徳による皇位継承と存続のあり方と言っても良いのではないだろうか。 ―続く―