鎌倉時代の中後期に歴史書として『吾妻鏡』編纂され、頼朝挙兵の治承四年(1180)四月から何度かの欠落年度があるが、文永三年(1266)七月の将軍宗尊親王の鎌倉追放までの期間が記されている。鎌倉幕府(北条得宗家)により編纂され、幕府側から見た視点で捉えることが可能だ。『吾妻鏡』の参考文献としては、幕府文官であった大江氏、三善氏、二階堂氏の家の残された記録、幕府政所に残る右筆等の記録、日記、北条諸家や御家人の家伝、訴訟の諸文書や寺社の記録などが用いられた。また、九条兼実の日記『玉葉』や藤原定家の日記『明月記』、九条兼実の弟で天台座主の慈円が記した史論書『愚管抄』等の資料なども編纂資料として用いられている。
これらの日記により京の公家方および、僧侶による観点から記したものであるため京側の捉え方と、ある程度の客観的考察も読み取ることが可能である。吉田権中納言・吉田経房の『𠮷記』は、源平合戦(治承・寿永の乱)の内乱時に経房が、蔵人頭・印別当として朝廷の決定を詳しく知ることが出来る立場であったために、朝廷の中心人物であった九条兼実の『玉葉』よりも詳細な事実を知ることが出来る箇所も存在する。また、鎌倉時代後期の十三世紀末頃には、公家の日記などの記録を抜粋・編集した百錬抄があり、京中心の記録であるため、武家側の『吾妻鏡』とは、対照的な捉え方をしている点が興味深い。『吾妻鏡』が、幕府による編纂であるため、幕府寄り、特に北条得宗家寄りに記されているが、他の資料と組み合わせて理解することで、歴史の本質を読み取ることが可能であり、そこに面白さがある。
鎌倉時代の折本形式の歴史書であり、年表風の年代記として『鎌倉年代記』がある。年賦は、寿永二年(1183)から元弘元年(1332)までの期間が記され、元弘元年ごろには成立したと考えられている。編者は不明であるが鎌倉幕府の吏員と考えられる。底本はおり本仕立て一帖二十六折書名は原本包紙による。幕府の用心などが政務時に過去の出来事を参照するために、携帯用年表として用いられたと考える。また、同様の折本形式の年代記として『武家年代記』『鎌倉題日記』などが知られ、鎌倉時代後期の幕府の動向を知る上で貴重な資料とされる。後の江戸時代に写本や活字本にされた『北条九代記』はその異本である。『続群書類従』や「改訂し石集乱」にも『北条九代記』の名で納められている。詳細は江戸期の乱で記載する。また『鎌倉年代記』には『吾妻鏡』に記されていない記事もあり、正安三年(1301)のハレー彗星が地球に接近した事の記事がのせられている。
これらの日記等は、過去出版された事があるが、『玉葉』や『明月記』等の日記は量的にも多く、需要と供給の問題で、出版社が採算を獲得できずに、原本及び注釈本の出版は現在行われていない。こういった点から中古本を検索して探し求めるのも面白いものである。しかし、高価であり入手は困難で、国立図書館、国会図書館や蔵書として所管されている大学等にコピー検索を依頼する事になり、なかなか大変な作業である。 ―続く