北条時頼の仏教信仰は、多くの宗派をこの時期発生させることに繋がっている。鎌倉新仏教であるが、何故か品性を疑うような帰依・受戒を受けていた。宝治合戦後、道元からは授戒を授からなかったが、他に鎌倉に招聘したのは、蘭渓道隆、隆弁、兀安普寧等である。中世の文化において、それは仕方の無い事であったのかもしれない。科学が今のように発展せず、医学において何ら確立していないこの時期は、自身やその家族の死をただ黙って見つめることしか出来なかった時期で、神仏による祈禱や祓いに頼るしかなかった。鎌倉新仏教は浄土宗、禅宗・臨済宗・曹洞宗、浄土真宗、真言律宗、日蓮宗そして北条時頼の時代に一遍の踊念仏である時宗が生まれることになる。庶民にまでの布教活動が広まった。真言律宗はこの頃にその名は無く、叡尊自身は真言宗の再興を尽くした真言宗の一派と考えられており、歴史的に用いられるのは、叡尊教団としての名である。
(鎌倉 明月院 北条時宗像)
弘長二年(1262)八月十五日に叡尊は、関東から西大寺に帰着した後、鎌倉には弟子の忍性が残り、鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導的立場であった念空道教が叡尊に帰依した事により、臨済宗・浄土宗と勢力を分かつほどに発展した。その後、忍性は鎌倉の極楽寺を中心に民衆救済運動を行い、鎌倉雪の下で非人三千人を救済している。北条時宗の時代になり、特に非人、貧民、頼病患者への救済活動を行う事で、極楽寺に施薬院(貧者、病人を保護し治療や薬物の提供を行う)、悲田院(貧困者や孤児などを収容する施設)、癩舎(頼病患者の治療・施薬・養護施設、)施益院、福田院を開いた。また人間だけでなく、病気や老いた牛馬に対する坂下馬病を設置し、療養保護をここなっていることが、極楽寺絵図に記載されている。これらの福祉事業には莫大な費用が掛かるため、幕府に土木事業の引き受け、道路・架橋の施設や修復、和賀江島の港湾施設権取得により、これらの社会福祉事業の費用を捻出した。真言律宗寺院の多くが、大きな石材を用いた構造物が多く散見され、これらは、僧侶及び宗徒が土木石材の技術を持つ集団であったことが窺える。叡尊教団は、室町期以降に一時衰退するが、江戸期に入り明忍が再興の動きを見せ、その門人であった浄厳が初めて公に「真言律宗」という名乗りを用いた。
(鎌倉 極楽寺)
北条時頼が、仏教に対する信仰信が強い人物であったが、日蓮により文応元年(1260)七月十六日に時頼に提出した『立正安国論』を受け入れることが無かった点は、「このまま浄土宗などを放置すれば災害や天変地異、天体運行の乱れが起き、国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅ぶ(他国侵逼難)」と唱え、「邪宗への布施をやめ、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)」と説いた事にある。貴族階級から民衆にまで広がる専修念仏を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠であった。また他宗の仏教宗派を批判した四箇格言(四箇格言)には、真言某国、禅宗天魔、念仏無限、律国賊と『諫暁八幡沙』、『御義口伝上』等に記されており、文応元年、他宗派の宗徒に襲撃を受け松葉ヶ谷の法難として襲撃を受け、そして弘長元年に伊豆に流罪とされた。
(鎌倉 妙本寺)
北条時頼が、これらの諫暁を受け入れなかった理由として、第一に祖父・北条泰時が示した『御成敗式目』にある第十二条、「悪口咎事〈悪口(人をあしざまにののしること)の罪について〉 右、闘殺(単純な喧嘩による殺人)の基は悪口より起こる。その罪は流罪に処せられ、その軽きは召し籠められる(身柄を預けられる)べきである。門注(訴訟)の時、悪口を吐けば、則ち論書(訴訟の対象領地)を敵陣に付けられるべし。またその論書の事は、その理(ことわり)無き者は、他の所領を没収せられるべし。もし所帯無き者は、流罪に処されるべきなり」とある。悪口は混乱を呼び、安定的な治安維持が損なわれ、そこに大乱を招く恐れがあるからであった。また第二条、「可修造寺塔勤行仏事等事〈寺や塔を修理して、僧侶の勤めを行う事〉」により僧侶は仏事修行を果たす事が、定められている。国政非難とおぼしき『安国立証論』は、北条時頼の政治批判にも当る物であったと考えられる。しかし、最大の問題点は、「浄土宗などを放置すれば災害や天変地異、天体運行の乱れが起き、国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅ぶ(他国侵逼難)」と唱えたことにある。これまでの幕府の国家安寧の特性による施策は、騒乱を如何に回避するかであり、騒乱を示唆誘導する者に対しての厳罰を下したのであった。伊豆流罪赦免後も再び鎌倉に入り、布教活動が行うが、この幕府と日蓮との対立は、時頼の嫡子・時宗の時代まで続くことになる。蒙古からの国書が鎌倉に届くと『立正安国論』の他国侵逼難を再び諫暁を的中させることを示した。そして蒙古に対し調伏(じょうふく:敵を打ち破り服従させること)の祈祷を行う真言律宗の極楽寺の忍性が幕府との結びつきを強化していたため、日蓮は極楽寺の忍性に口撃の矛先を向けた。国難に対し一元化を計る幕府は、日蓮を危険視し、斬首の決定を求めたが、龍ノ口の法難により在命して、最終的には、当時もっとも厳しい流罪として佐渡へと流されている。
(鎌倉 妙本寺)
『吾妻鏡』は、この弘長三年(1263)から再び記され、正月の埦飯の差配は、北条時頼、北条正村、北条長時が差配して行われている。同月九日、北条時頼の兄(経時)の長子・隆政が二十三歳で死去した。経時の死後は時頼の意向で、隆政は神宮寺別当隆弁に入室し僧侶となっていた。
二月二十二日、『吾妻鏡』には記述されていないが、日蓮の伊豆流罪を赦免している。
三月十七日、最明寺禅室(北条時頼)は信濃深田郷を購入し、善光寺に不断経衆・不断念仏衆らの糧料にあてるため寄進した。ひたすら来世の値遇を思われてのことという。
六月二十三日、延期されていた将軍家(宗尊)の上洛について、その審議が行われ、課役を諸国に にあてがわれた。八月の九日には上洛について十月三日が決定しているため、道中の供奉人いかが定められている。十二日から雨が降り出し、十四日には雷と南風が激しく雨足はさらに強まった。午の刻に大風。木が倒され、民家にはほとんど無事なところが無かった。御所の西侍が倒壊し、棟・陵・桁等が吹き飛び、また由比浦に着岸していた船数隻が破損し沈んだ。十六日にやっと快晴となっている。
八月二十五日、諸国台風により諸国が損耗し、百姓が嘆いているとの事でその撫民として、将軍上洛を済度延期された。そしてこの日『吾妻鏡』では、「相州禅室(北条時頼)の御邸宅で大般若経真読した。御病気の為である」と記され北条時頼急病となった事が記されている。そして、同月二十七日には、鎌倉再び暴風雨が訪れ、由比浦の舟が沈没し、死人が岸に打ち上げられた。いずれも数えきれないほどであった。また鎮西の年貢を運ぶ船六十一隻が、伊豆の海で同じ時に沈んだという。 ―続き