和島芳男氏の『叡尊・忍性』における鎌倉での叡尊を記した『関東往還記』を記させていただく。「弘長二年(1262)二月二十七日、叡尊鎌倉に到着し釈迦堂に移り、三十日には、釈迦堂にて梵網布薩を行い、叡尊が説戒・説法を行なった。時頼の室(葛西殿)及び金沢実時一族らが参り、聴聞した。また禅僧数名が来てともに布薩すべき由を所望したが、これらは許されなかった。この時事にあずかったもの十五人。他の結縁衆三百六十五人衆であり、その夜に入ってからも四部布薩が行われている。三月一日、北条時頼から支給面謁を遂げたい旨との事を実時が持って申し送ってきたため、叡尊はしばらく猶予の上、便宜を記すべき故を答えた。この日、実時は自分の後見者観証(前参議菅原為長孫)・称名寺別当乗台(実時外甥)及び真鏡の三人に釈迦堂の僧事に沙汰するように申しつけ、三人は釈迦堂僧坊の辺りに各自宿坊を移し雑務の指示を行う事となった。
三月八日、北条時頼はまた実時を似て申し送り、叡尊と対面している。実時は「対面の志は説なりといえども、自身に参詣するにはすこぶる以て憚りが多く、また容易く私宅に講じ奉る事はその恐れを少なからざるゆえ進退これきわまる」と。叡尊は、「一人の請によって容易く他所に赴くことは願う所ではないが、今の場合は止むを得ぬ事であるから当方からまかり出よう」と答え、その夕方から最明寺に赴き、時頼にして謁して数刻談話の後信仰に及んで釈迦堂に帰ったとある。定舜は、これより先に人夫八十四人を率いて、常陸三村寺に行き経典等を奉請し、十二日に鎌倉に持ち帰った。このことから関東の律宗の根本道場を鎌倉に移す意図に出たと考えられる。そして十四日には忍性が、続いて二十日には定尊・頼玄がそれぞれ同法数人ずつを率いて三村から鎌倉に入った。釈迦堂の僧堂も手狭になり、実時本妻の家に僧堂を移した。鎌倉に布教の体制が整うと叡尊は毎回十二・三日の二回にわたり、『梵網経古迹記』を講じ、その後連日説教・授戒し、また羅漢供・太子講等を行った。道俗貴賤の受戒・結縁する者は毎回数千人に及んだ。
越後守実時は引付方として日々政務多忙に関わらず、月に三日を定めて釈迦堂に参る。また将軍宗尊親王に侍した左近衛中将藤原公敦も釈迦堂に入り、『梵網経古迹記』を傾聴し、その室も授戒をして法名を如信と称した。また同様に、鎌倉に宗尊に従事していた明経、前三河守清原教隆や公敦の兄少将入道平蓮も授戒している。また将軍の乳母一条局(故大納言士御門通方女)も古迹講を聞いて随喜し、美濃局(中納言士御門顕方母)とともに受戒し、それぞれ法名を慈如・是如を得た上、叡尊から在家の菩薩として修行するように諭されて一層信心を発し、一条局は其領地因幡国(鳥取)古海郷以下六ヵ所において殺生を禁断することを誓った。幕府の連署であった相模守(北条)正村はその妻と共に十重禁戒を受け、さらに斎戒を受けようとしたが、叡尊が一人の請に赴くことを謝絶したので、正村は実時とともに釈迦堂にて授戒し、宗要や政道についても教えを受けた。正村の一族、越前上勝弘は忍性を自邸に請じ、妻子以下家人と共に斎戒を受け、正村の妻の柿蓮念尼は衆僧にかたびらを送り、次いで妹及び故陸奥守重時の妻とともに受戒した。御家人層では僧事を沙汰した観証・乗台・真鏡の三人の内、観証・乗台は早くも釈迦堂において叡尊に謁して斎戒を受けた。観証は知行所における漁猟の利が膨大であるにも関わらず、殺生の罪を恐れて領内の漁猟を長く禁断した。乗台の本妻は授戒の志を切に抱きながら、病気のため行歩不自由のため参詣出来ず嘆いていたが、やがて頼玄をその家に迎えてようやく授戒の素志を遂げた。真鏡も僧事を沙汰しつつ数ヶ月にわたり叡尊の講説を聴聞した結果ついに発心し、私財を捨て妻子を離れて叡尊の近習衆に加わった。小野三郎の母(足利左馬入道女)は早く五戒を受けて法名是信を給せられ、叡尊の最初の宿坊の主、摂津前司後家亀谷尼は相伝の所領にして当寺有名な狩場であった下野国(栃木県)横岡郷の殺生を禁断すべき契状を進めた。この禅尼は叡尊帰洛後も時々の音信を絶たず、弘安二年(1279)九月には一切経を西大寺に寄進した人である。また武藤諸郷の妻も大和国(奈良)の領所を西大寺食料に寄進しようと申し出たが、叡尊は例の別願があるのでこれを辞退した。
(英尊像 北条時頼像)
播州(兵庫県)から鎌倉に来ていた訴訟人が古迹講を聴聞した結果、多年の宿訴をひるがえし、僧坊に来て自ら訴訟関係の文書を焼き、妻とともに出家したので、見るもの感嘆せざるはなかった。また念仏者侍従入道誓阿も数日聴聞する間に、「日頃の邪儀を改め、断悪修善を専らにすべきの由」数十ヶ条の誓いを立てて叡尊に進め、今後は偏執をなげうち、正法を以って俗衆を化すべき旨をねんごろに約した。大納言阿闍梨能教も母の為に羅漢供を行い、築後の国(福岡県)石田庄の殺生を禁断した。なお上総国(千葉県)から来て斎戒を受けた僧もあり、僧俗の出家入寺を望む者が多かったが、仮住まいの釈迦堂では万事不便であるので、叡尊も彼らの望みを許すわけにはゆかなかった。これがためにわざわざ三村寺まで行き、そこで出家の素懐を遂げるものも少なくなかった。この様に叡尊は鎌倉において律宗を宣揚し、ことに持戒の功徳を進めるとともに、またその実践的部面としての事前・救済を通じ、一層化導の効果をおさめた。五月一日、鎌倉両所の悲田において食を施し、向浜の悲田には忍性、大仏悲田には頼玄が行ってそれぞれ十善戒を受け、六月十一日には庎(かい:庎癩、疥癬やはたけなどの皮膚病)らい宿において食を与えた。盛遍が戒師となって四十四人に菩薩会を授けたところろ、皆慚愧の涙を流した。この頃一条局らは頻りに羅漢供を修したが、その供物は乞食人・庎(かい)らい宿あるいは東西両獄に施与された。
(奈良西大寺)
六月七日、左馬権守長綱朝臣が来着、西大寺慈英比丘及び信常沙弥の早世を奉ずる葉室浄住持の伝言をもたらし、翌日叡尊に謁し、この度の下向により関東の諸人みな断悪修善の道に赴き、ことごとく現世撫民の計らいに赴いた事感悅少なからずとして称嘆した。十三日夕、時頼はにわかに釈迦堂を訪れた。叡尊は、自身の御出行はた易い事でないのに、わざわざの御来臨は何故かと尋ねた。時頼は答えて言う。かたじけなくも不詳の身をもてあやまって征夷の権をとり、つねに薄氷をふむ如き思いであり、わずかの出行も容易くないので先度は長老の私宅に請じたが、つらつら思えば、ただ自信を顧みるばかりで参詣を企てない事は恭敬の儀をなおざりにするに似ている。まことに後悔に堪えない。事に名利の為には数度命をおとすほどの禍にありながら、仏法の為にはいまだ片時も捨身の心を発しなかったのは愚癡の至りである。よって万事をなげうって参詣したのであると。その後数刻仏法の大意を談じた。時頼はなお斎戒を受けるために今日明日中にまた参るべしと言ったが、叡尊は来週の儀はすこぶる煩い多きことゆえ今後は必要に応じて当方からまかり向かうべしと言ってこれをとどめたので、時頼は喜んで退出した。十八日朝、時頼の請により、叡尊は盛遍・性海を従えて最明寺に赴き、時頼に斎戒を授けた。時頼の恭敬他に異なり、浄信を持って受戒し、自ら庭上に下って叡尊の退室を見送り、叡尊が門を出て後に道場に戻った。これらの儀をもれ聞いた人々は、稀代の珍事と言いはやした。」。 ―続く
(鎌倉 明月院)