鎌倉散策 『徒然草』第六十五段から第六十八段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第六十五段 このごろの冠

 このごろの冠(かぶり)は、昔よりは、はるかに高くなりたるなり。古代の冠桶(かぶりをけ)を持ちたる人は、はたをつぎて、今用ゐるなり。

 

現代語訳

 最近の冠(かぶり)は、昔に比べると高さがかなり高くなっている。古代の冠(かぶり)を入れておく箱を持っている人は、新しい冠を入れるために桶のはしを継ぎ足して今用にしている。

 

(写真:ウィッキペディア引用『紫式部日記絵巻』藤原道長 九条道家像〔『天子摂関御影』〕)

第六十六段 花に鳥付くること

 岡本関白殿、盛りなる紅梅の枝に、鳥一双を添へて、この枝に付けて参らすべきよし、御鷹飼下野武勝(おんたかがひしもつけのたけかつ)に仰せられたりけるに、「花に鳥付くるすべ、知り候はず。一枝に二つ付くる事も、存じ候はず」と申しければ、膳部に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また武勝に「さらば、おのれが思はんやうに付けて参らせよ」と、仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて参らせけり。 

 武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く。五葉(ごえふ)などにも付く。枝の長さ七尺、あるいは六尺、返し刀五分に切る。枝の半ばに鳥付く。付くる枝、踏まする枝あり。しじら藤の割らぬにて、二ところ付くべし。藤の先は、ひうち羽の長けにくらべて切りて、牛の角のやうにたわむべし。初雪の朝、枝を肩にかけて、中門よりふるまひて参る。大砌(おおほみぎり)の石を伝ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐり散らして、二棟の御所の高欄に寄せかく。禄を出ださるれば、肩にかけて拝して退く。初雪といへども、沓のはなの隠れぬほどの雪には参らず。あまおおひの毛を散らすことは、鷹はよわ腰を取る事なれば、御鷹の取りたるよしなるべし」と申しき。

 花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん。長月(ながつき)ばかりに、梅の作り枝に雉を付けて、「君がためにと祈る花は時しもわかぬ」と言へる事、伊勢物語りに見えたり。つくり花は苦しからぬにや。

 

現代語訳

 「岡本関白(近衛家平)殿が、花が咲き盛る紅梅の枝に、雉の雌雄の一つがいをこの枝に付け添えて差し出すようにと、朝廷の御鷹飼下野武勝(おんたかがひしもつけのたけかつ)に仰せられた。「花の咲いた枝に鳥を付ける方法は、知りません。一枝に二羽つくる事など、存じません」と武勝は申したが、関白家の料理人に尋ね、周囲の人々にも聞いた。また、武勝に、「それならば、お前の思うとおりに鳥を付けて差し出せ」と、仰られたが、花もない梅の枝に、一羽つけて参られた。武勝が申し上げるには、「柴の枝、梅の枝、蕾のある枝と散りたる枝に付けることができます。五葉の松にも付けられます。枝の長さは七尺、あるいは六尺、枝を切るとき、まず斜めに大きく切り、次に反対の側から小さく切って、切り口を整え枝の半ばに鳥を付けます。その枝には鳥の頭を結びつける枝と、鳥が足で踏んでいるように見せる枝とがあります。しらず藤先のつるを割かずに、丸のままで、鷹の翼の最下部の葉を長さに合わせて切り、牛の角のように膨らませます。初雪の明日の朝、枝を肩にかけて、中門より威儀を繕い参上いたします。大砌(おおみぎり:寝殿の軒下の雨だれを受ける石畳)の石を伝って、雪に足跡を残さないように、鳥の翼の前半部にある風切羽に生えている短い羽毛を少しむしり取り、二棟廊の欄干に(その枝を)置いておきましょう。当座の心づけの品が出されるなら、(それを)肩にかけて拝舞して退きます。初雪といえども沓の先の隠れるほどの雪では(風情が無いので)参りません。風切羽に生えている短い羽毛を少しむしり取り散らすことは、鷹は左右の細い所を掴む物なので、御鷹の(その鳥を)捕らえた身体を示しています」と申した。

 花に鳥を付けるとは、いかなる理由であったのだろうか。陰暦九月の頃、梅の造花の枝に雉を付けて、「君がためにと祈る花は時しもわかぬ」と言われているのは、『伊勢物語』に(秋の季節に梅の造花に雉を付けて愛する人のために送った)と記されている。造花は差し支えないのだろうか。

 

第六十七段 加茂の岩本・橋本

 加茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひまがへ侍れば、一年(ひととせ)参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼びとどめて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗(みたらし)の景にうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚(よしみずのおしょう)、

 「月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら」とよみ給ひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。

 今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられけり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌おほし。作文・詩序など、いみじく書く人なり。

 

現代語訳

 「上賀茂神社の(末社十六社の中に)岩本・橋本の社は、在原業平・実方を祭神として祀られている。二社の祭神を混同して誤っており、ある年に参詣した折に、年老いた宮司が通り過ぎるのを止めて、尋ねてみると、「実方を祀ったのは、御手洗(本殿の西の方を流れる御手洗川を指し、実方の霊が影を移したのでそこに社を立てたという伝えがある。)の水面に景が映る所と聞いており、橋本の社の方が、御手洗川の水に近いと思います。吉水和尚(よしみずのおしょう:大僧正慈円)は、『月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら(月を賞し花を眺める古来の優雅な人はここに祀られている)』と読まれたのは業平の事で、岩本の社の事と聞いております。私どもよりはかえってあなたの方が御存知ではないでしょうか」と、丁寧に言われ、立派な態度の感じ入った人であった事を覚えている。

 今出川院近衛(亀山天皇の中宮嬉子に仕えた女官)も、和歌の選集などに(その歌が)選ばれた人で、若かりし時に、常に百首の歌を詠んで、この二つの社前に御手洗川の水で墨をすって清書された歌を、供えられた。本当に大変な名声を得て、人々に愛誦されている歌が多い。漢詩の作文や詩序についても、見事に書かれる人であった。

 

(写真:ウィッキペディア引用 慈円)

第六十八段 大根の兵

 筑紫に、なにがしの押領使(おふりやうし)などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおおね)をよろずにいみじき薬とて、朝ごとに二つずつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。ある時、舘の内に人もなかりける隙をはからりて、敵襲ひ来たりて、かこみ攻めけるに、館の内に兵(つわもの)二人いで来て、命を惜しまず戦ひて、皆追ひ返してげり。いと不思議に覚えて、「日ごろここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来(としごろ)たのみて、朝な朝な召しつる土大根らに候」といひて失せにけり。

 深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ。

 

現代語訳

 「筑前・筑後に、なにがしかの押領使なる者がいた。土大根(大根のこと)を何にでも効く素晴らしい薬として、毎朝二つずつ焼いて食べること、長年続いた。ある時に、館に人が居ない隙をはかって、敵が襲撃して来て、館を囲んで攻めた。館に二人の兵が現われ出て、命を惜しまず戦い、敵兵を追い返した。不思議に思えて、「日頃この館におられるとも見えない人々の、戦っていただき、どの様な人でしょう」と問い聞けば、「長年あなたが信頼して、毎朝毎朝召し上げられた大根でございます」と言って消えてしまった。

 深く信仰していたので。功徳もあったのだろう。」。

 

(写真:太宰府天満宮)