北条政子は義時の後継として甥の北条泰時を三代執権に就任させた。北条義時、そして子の泰時が執権になったのも北条政子の存在と政子の主導により執権に就いたと考えられる。特に泰時の場合は明確に記述され、執拗に行動が行われた事が記されている。特に、北条義時亡後、後妻の伊賀方・伊賀氏が権力を持ち北条氏・政子の政的立場の低下を憂慮し、北条政子・大江広元による策謀ではないかと考える事もできる。平安期から鎌倉期にかけて、家の当主が亡くなると、嫡子等がその家を継承するが、家の枠組みを維持するために後妻が大きな影響力を持ち続け、嫡子の兄弟や親族に対し統制していく。源頼朝の極刑を流罪に導いた平清盛の父・忠盛の妻である池禅尼、比企や、北条政子など例を挙げるときりがない。北条政子の行動とは、
『吾妻鏡』元仁元年(1224)七月三十日条、「…夜になって騒動があり、御家人らが皆、旗を上げ甲冑を着て競うように走った。しかし何事も無かったので、夜明けになって静まった」。
同年閏七月一日条、「若君(三寅、後の頼経)並びに二品(政子)は武州・北条泰時の御邸宅におられ、次々と御使者を(三浦)義村のもとに遣わして世の乱れを鎮めるように仰っていた。その上、昨夜の騒動に。驚いて義村を呼び寄せ、よくよく命じられた。「私は今、若君を抱いて相州(北条時房)・武州と同じところにいる。義村も別にいてはならない。同じくこの場所に祇候するように」。義村は辞退する事は出来なかったという。その他にも壱岐入道(貞蓮、葛西清重)・出羽守(中条家長)・小山判官(朝政)・結城左衛門慰(朝光)以下の宿老を呼び、時房を通じて命じられた。「上(三寅、後の頼経)は幼少なので、臣下の反逆を抑え難い。私は無理に老いた命を生かしており、たいそう役にも立たないが、それぞれはどうして故将軍(源頼朝)の記憶を思わないのか。そうすれば命令に従って同心すれば何者が蜂起するだろうか」。
同月三日条、「二品(政子)の御所で世上の事について審議が行われた。相州(北条時房)が参られた。また前大膳大夫覚阿(大江広元)が老病を押して召しに応じ、関左近将監実忠が記録を記したという。(伊賀)光宗らが宰相中将(一条)実雅卿を関東の将軍に立てようとし、その奸謀は既に露顕した。ただし公卿以上をむやみに罪科には処し難く、その身柄を京都に進めて罪科の事を奏聞して伺う。奥州(北条義時)の後室(伊賀氏)と光宗らについては流刑とする。その他の者はたとえ一味の疑いがあっても罪科は行わないという」。この日に政子、時房、覚阿(大江広元)が集まり、伊賀の変の筋書きを定めた。「奸謀は既に露顕した」ならば、謀叛であり、即刻の対応が求められるはずであるが、幕府が動いたのはこの月の二十日を過ぎてからであった。
(写真:ウィキペディアより引用 北条政子、大江広元像)
一条実雅は、父が一条能保で藤原北家中御門流の公卿であったが、官位には恵まれず、一条能保が源頼朝の同母妹の坊門姫を妻に娶る。治承四年(1180)の乱において、木曽義仲の京での圧迫を逃れ、持明院基家、平頼盛(平清盛の異母弟で池禅尼の子息)と共に義兄の源頼朝を頼り鎌倉に下向した。頼朝は、後に朝廷との交渉の使者として、彼らを厚遇する。特に同母兄妹は坊門姫だけで、その婿である能保には信頼を置き、平家が滅んだ後に異例の昇進を得て、京都守護を勤めていた北条時政に代わり就任させた。後に権中納言従二位まで登り、頼朝に京都での情勢を伝え朝廷との繋ぎ役を果たす。能保の娘が九条兼実の子・良経に嫁ぎ九条道家が生まれた。また一条能保の他の娘・全子を西園寺公経にと嫁がせ、良経の子・道家は西園寺公経の娘・掄子を娶り、その子が三寅、後の鎌倉幕府四代将軍・藤原頼経である。したがって実雅は、頼朝の甥にもあたり、三寅の叔父であった。健保七年(1219)鎌倉幕府三代将軍源実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従し、暗殺を目にしている。その後、妹の孫・三寅が四代将軍に就くことが決まり、鎌倉に残り三寅の補佐を行う立場を得て、貞応元年(1221)には参議に任じられていた。また北条義時の娘を妻に迎え、三寅の側近と共に義時の婿という立場で幕府内部にも関与し、御家人を集めて独自の軍事訓練等を行い幕府内においても一定の勢力を築いている。
同月二十三日条、「寅の刻(午前四時頃)に武州(北条泰時)の近辺で騒動があった。このところ全くこのようなことは無かった。人が不審に思っていたところ、卯の刻(午前六時頃)になって宰相中将(一条)実雅が上洛のため出発後、武士は退散したという。伊賀四郎佐衛門尉朝行・同六郎右衛門尉光重・式部太郎(伊賀)宗義・伊賀左衛門太郎光盛らが(実雅に)付き従った。また式部大夫(源)親行・伊具馬太郎盛重は特に命令は無かったが私的に付き従ったという。今日は出行く忌日であり、以前に日次を決定した時、今後のためによろしくないと批判する人があったが、御許容にはならなかった。その出発を急がれたためである」。北条政子・時房、覚阿(大江広元)が伊賀の変を画策した内容を一条実雅が知ったのであろう。二十日が過ぎて急遽、逃げるように上洛の途についた。
同月二十七日条、「六波羅の使者が(鎌倉に到着した。去る十六日に掃部助(かもんのすけ:北条時守)が入京し、同十七日に武蔵太郎(北条時氏)が今日に就いたと申した」。鎌倉・京においての伊賀氏の幕府の対応が整った。
同月二十八日条「…今日、若君(三寅)ならびに相州(北条時房)が本所に帰られたという」。
同月二十九日条、「伊賀式部丞光宗は罪により政所別当の職を改められて所領五十二ヶ所を没収され、外叔父の隠岐入道行西(二階堂行村)が身預かり守護した。親戚が預かるのは少々憚りがあるが、行西については何事も疑惑は無いので預け置くとの二品(政子)の命を受けて武州(北条泰時)が下知されたという。藤民部大夫(二階堂)行盛が政所執事に補任された。また尾藤左近将監景綱が泰時の後見となった。以前の執権二代(北条時政・義時)には家令は無かったが、今度はじめておかれた。景綱は武蔵守(藤原)秀郷朝臣の後胤で、玄蕃頭(げんばのかみ:藤原)知忠の四代孫という」。
元仁元年八月一日条、「…灯し頃に相州(北条時房)が初めて政所に出仕した。時政と武州(北条泰時)が執権の事を承った後、今までこのことは無かった。しかし「前奥州禅室(北条義時)の五月中に(出仕を)憚ることはまことに道理と言うべきである。先月はまた閏月きであった。今となっては吉日を選ぶまでもなく早く参るように。この間、世上は静まらず、人の思う所も疑念が多いであろう。このようなことが行われれば落ち着く基となろう。」と二品(政子)が頻りに勧められたという」。この日、従来なかった連署の任に就いた時房が政所に出仕する。北条氏の幕府内での執権と連署という位置づけが確立し、北条氏の立場をより強固なものとした。
同月二十二日条、「故奥州禅室(北条義時)の百ヶ日の御仏事が今日、行われた。導師は弁僧正(定豪)という。今日の夕方、六波羅の使者が(鎌倉に)到着した。去る十四日、相公羽林(一条実雅)が入洛したと申した」。その後実雅は、越前に配流され、四年後の安貞二年(1228)配流先で死去している。「尊卑分脈」では、「河死」と在り、河で溺死したのだろうが、腑に落ちない。元久二年(1205)牧氏事件では、在京御家人の平賀朝雅は誅殺されたが、公卿であった一条実雅はこのような対応となった。
同月二十七日条、「夜になって鎌倉中が騒動した。伊賀式部丞光宗が誅殺されるとのうわさがあった。その事実が無かったので静まったという」。
同月二十八日条、「武州(北条泰時)が政所吉書始めを行われたという。また家務の条々についてその規定を設けられた。左近将監(尾藤)景綱・平三郎兵衛尉盛綱等が奉行したという」。
同月二十九日条「曇り。前奥州(北条義時)の後室の禅尼(伊賀氏)が、二位家(政子)の命により伊豆国北条郡に下向した。その所を籠居するという。罪科があったためである。伊賀式部の丞光宗は信濃国には遺留され、舎弟の四郎左衛門尉光重らは相模掃部助(北条時盛)・武蔵太郎(北条時氏が(身柄を)預かって京都から直接鎮西に配流せよと(六波羅に)仰せ遣わされた。朝行・満重の両人は相公羽林(一条実雅)に付き従って上洛した後、まだ鎌倉に帰参していなかったという」。
『吾妻鏡』では、元仁元年(1224)六月十三日に北条政子と覚阿(大江広元)の会話に続いて謀反の内容が記されているが、風聞・憶測であり、伊賀氏が謀叛を企てたという実質的な記載はない。その内容は、伊賀方の兄伊賀光宗と共に実子・正村を執権、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようという企てとされる。これが「伊賀氏の変」であり、同年閏七月三日、北条政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。伊賀方、光宗、実雅は流罪となるが、北条正村は、この事件に連座させていない。北条政子が北条氏の立場を継続させるため、執権・泰時、連署・時房を擁立し、事前に反勢力になる可能性がある伊賀氏の謀反を画策させた。また北条義時亡後に後妻の伊賀方が権力を有する事で北条政子の政的立場の低下を憂慮して北条政子・大江広元。北条時房による策謀ではないかとも考える。また泰時は、「私は正村に対し全くの害心を抱いていない」と、正村を伊賀氏の変に連座させなかったのは、泰時の行動であったとも考えられ、政子等の画策には乗らず事態を鎮静化させたという説もある。後年、正村が連署、執権に就いている事からも窺える。「伊賀氏の変」が冤罪であった可能性が高いく、翌年の嘉禄元年(1225)八月に伊賀朝光・光重が恩赦を受け帰参した。伊賀光宗も同年十二月には罪を許され所領を回復しており。寛元二年(1224)には評定衆に就任している。これ等は、嘉六元年七月に政子が亡くなり、翌八月の恩赦であり、北条泰時の配慮であったとも考えられる。
―続く―