鎌倉散策 北条泰時伝 二十五、後鳥羽院の画策 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)五月十九日、早急な京での情勢の知らせで事態を知った幕府は、院宣旨の使者を捕らえて鎌倉で留めた。そして各御家人に宣旨が渡ることを止め、院宣旨の内容を内密にし、義時追討宣旨を隠し、幕府討伐の宣旨に切り替え御家人に対応する。古代から朝敵は滅ぼされ、院・朝廷と戦う事で朝敵の汚名を受ける事を大変恐れ、朝敵に身を投じる事は考えられなかった。

  

 北条義時追討の院宣は坂井孝一氏『承久の乱』、真の「武者の世を告げる大乱」から『承久記』「慈光寺本」の院宣の内容を現代文訳では、「故右大臣」実朝の死後、御家人たちが「聖断」、すなわち天子(「治天の君」後鳥羽院)の判断・決定を仰ぎたいと言うので、後鳥羽は「義時朝臣」を「奉行の仁」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、「三代将軍」の跡を継ぐ者がいないと訴えてきたため、「摂政の子息に継がせた。ところが、幼くて分別が無いのをいいことに「彼の朝臣」義時は野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て振舞い、然るべき政治が行われなくなった。そこで、今より以後は「義時朝臣の奉行」を差し止め、すべてを「叡襟」(天子の御心)で決定する。もしこの決定に従わず、なお叛逆を企てたならば命を落とすことになるだろう。格別の功績を挙げたものにとっては褒美を与える。以上である。と訳されている。また、坂井孝一氏は「義時の奉行を止めさせ、後鳥羽院の意思で政治を行えば御家人の願いも叶えられる。つまり義時排除という一点で、御家人たちと後鳥羽院の利害が一致すると言う理論である」。また、「賞罰と御家人の恩賞と記述され御家人の心をつかむに十分な院宣と言えよう」と記述されている。

 

 私見であるが、後鳥羽院が鎌倉幕府と執権の北条義時が「義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、おぼしめすところ」として後鳥羽院の手中に納めようとしていた点があり、そこには、東国武士に対する大きな誤解があったと思われる。将軍及び御家人は朝廷から権威として官位を頂いてはいるが、実質、将軍としての鎌倉殿は東国武士たち御家人等が、朝廷に対し武士の独立的立場を確立した形態であり、「御恩と奉公」所領安堵による忠義(合戦に赴く等)により、ここに主従関係が成立していた。したがって、後鳥羽院は既成事実的に「義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、おぼしめすところ」、すなわち「主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ」では、誰が主君なのか。これは、将軍を傀儡とする後鳥羽院を指した見方ではないかと考える。鎌倉幕府内では将軍が主君であり、幕府家政機関としての長が執権であるため、執権の人事権は、本来将軍に在る。宣旨において幕府討伐ではなく、義時のみの追討と主君を将軍から後鳥羽院への論点のすり替えが行われた。しかし坂東武士にとっては、東国の武士による政権を崩壊させ、再度朝廷主権の貴族政治に帰路する事は考えられなかった。しかし後鳥羽院は、この宣旨により執権北条義時に不満を持つ御家人を集め幕府内での内部分裂を画策したとみられる。

 

 後鳥羽院は、和田合戦後、北条氏に不満を持ち対抗する御家人を取り込んで、幕府内での北条氏と御家人が分断することを試みた。その勢力として北条義時以外の北条氏と三浦氏を対象としたと思われる。しかし、北条時房への画策は、失敗したと考えられ、『吾妻鏡』承久二年(1220)一月十四日条において、「北条時房の次男・時村と三男・資時が急に出家し、突然の事で人はこれを怪しんだ。」と言う記載がある。去る建保六年(1218)二月四日条に御台所北条政子が上洛し、北条時房が就き従った際に政子は四月十五日に京を出ているが、時房は後鳥羽の蹴鞠会に召され、その後数日逗留している。後鳥羽院から「蹴鞠の道をよく心得ていると何度も感心された」という。また承久元(1219)年三月十五日条には、北条時房は後鳥羽院から藤原忠綱を通して命じられた条々についての回答と、将軍の御下向のため、二位家(政子)の使者として侍千騎を従え上洛している。幕府重臣の中では、後鳥羽院に最も近い存在であっただろう。時房の子、四人中の二人が出家したことは、家にとって大事なことで、在京が多かった時房に後鳥羽の工作による何らかの影響が生じたのではないかと推測される。そして、それ以降のこれに関する時房等の記述がない。また、この承久二年の記事が、その後、平凡な日常記事として少なくまとめられていることに不快感を持つ。

 

 三浦胤義は、三浦義澄の末子の九男であり、三浦義村の弟にあたる。後鳥羽院は、在京中の「平判官」胤義を取り込んだ。胤義の妻は「一品房昌寛(頼朝の右筆)」の娘で、胤義の妻になる以前は「故左衛門督殿」、二代将軍頼家の側室であり、三男・栄実、四男・禅暁を産んでいる。しかし、頼家は、後見であった比企能員と愛妾・若狭局、子の一幡を比企の乱で北条時政等に殺害された。奇跡的に頼家は、病魔から立ち直るが、弟・実朝が将軍職に就き、幽閉先されその修禅寺で義時の配下に殺害されている。『承久記』「慈光寺本」では、「胤義は再婚後に日々涙で暮れる妻を見て都に上がり、院に仕えて鎌倉に一や貼って妻の心を慰めたいと思っていた」とされる。また『承久記』「古活字本」には「大番ノ次デ在京シテ候ケレバ」と有り、任期が明けても在京していたとも読み取れるが、在京の経緯には不明点が多い。この胤義という男は、文治元年(1185)頃の生まれとされ、一品房昌寛の娘を妻に娶っているが、その時期は定かではない。元久二年(1205)の畠山の乱、牧氏事件に兄・義村と共に出陣し、和田合戦時には、和田義盛に与する起請文を書いた義村の裏切りに加担し、義村・胤義兄弟が話し合い、『吾妻鏡』では健保元年(1213)五月二日条に義盛が襲撃する前に「累代の主君を射るならば、きっと天罰は免れないだろう。速やかに先非を悔い改めて…北条義時邸に参上し、義盛がすでに挙兵したことを申した。」とする。胤義二十九歳頃であり、比企の乱から十年たっていた。その間に一品房昌寛の娘を妻に娶っていると考えられるが、子が義有、高義、兼義、胤連、胤泰がおり、おそらく元久二年(1205)の畠山の乱前後に娶ったと考える。

 

 『吾妻鏡』健保六年(1218)六月二十七日条に源実朝の左大将拝賀として参列しているため上洛はその後と考えられる。承久三年(1221)六月一日十五日条に承久の乱最後の戦いで西山の木島(京都市右京区太秦の木島坐天照御霊神社)で胤義と胤重・兼義親子が自害した。したがって一品房昌寛の娘との子として元服後の十五歳から十八歳ぐらいと考えられる。それらを考慮すると和田合戦時には兄義村に追随して戦ったが、子息が育つにつて上洛して後鳥羽院に仕えたと考えられる。胤義は右衛門尉で院に仕え検非違使を兼任するが、兄の三浦義村は和田合戦において駿河守(国司)を与えられたため、義村の方が上位であった。

 『承久記』「慈光寺本」では、胤義が兄義村に書状を送り、義時を油断させる計略を承ければ討つのも簡単だと秀康に語ったとする。報告を受けた後鳥羽は「急ぎ軍の僉議仕れ(急いで合戦についての評議を開始せよ)」と命じた。「古活字本」では挙兵計画の軍議に参加した胤義は「朝敵になった以上義時に味方する者は千人もいまい」と述べ、藤原北家秀郷流藤原秀宗の長子で、院北面・西面の武士として院に仕えた藤原秀康からの挙兵計画の参加を受けた時においても兄・義村は「鳴呼ノ者(馬鹿な者)」なので日本国惣追捕使(にほんそうついほし)に任ぜられるなら必ず味方すると確約し、楽観的な見通しを述べている。胤義は、兄・義村の尼将軍・北条政子と執権・北条義時との関係を安易に考えていたと言わざるを得ない。そして後鳥羽院も北条義時追討を安易に考えていた。 ―続く―