鎌倉散策 北条泰時伝 十九、実朝暗殺 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 去る健暦元年(1211)九月十五日、二代将軍頼朝の次子・善哉は十二歳で鶴岡八幡宮別当定暁の下で出家し公暁の法名を受け、翌日、受戒の為に上洛し、京都の園城寺の公胤の門弟として公胤の受法の弟子となっていた。

健保五年(1217)五月十一日に鶴岡八幡宮別当三位僧定暁が腫物を患い死去した。そして、尼御台所(政子)の命により欠員となった別当に公暁を補任する。六月二十日に鎌倉に戻り鶴岡八幡宮別当に就いた。同年十月十一日、阿闍梨公暁が鶴岡別当に補任されてから、初めて神拝が行われた。また宿願の為に、鶴岡八幡宮寺で千日の参篭を行い、翌建保六年の十二月五日、公暁が鶴岡八幡宮に参籠して全く退出しないまま幾つかの祈祷を行っているが、いっこうに髪を剃る事もなく、人はこれを不審に思ったと言う。また波多野義貞の男白川左衛門尉義典を伊勢太神宮や諸社に奉幣する施設を送った事が将軍御所で披露されている。承久元年

二月六日、伊勢神宮からの帰途、矢作宿で公卿の事件を知り自害している。

 

(写真:ウィキペディアより引用 公暁(月岡芳年「美談武者八景_鶴岡の幕雪」)

 同年七月九日には、北条義時は夢の中で薬師十二神将の内の戌神が枕元に立つ。義時は、このお告げを自身の安全のための宿願であり、自身の負担により大倉に薬師堂を建立する事を決めたと言う。現在の覚園寺である。またこの月、侍所所司五名が定められ、式部大夫(北条)泰時を別当とし、二階堂行村・三浦義村等と御家人の事を奉行せよと。泰時は御家人統制の重任にあたる事となり、北条義時の後継と位置付けられたと考えられる。泰時三十六歳であった。十月十九日、実朝は内大臣(右大臣)に任じられ、同二十六日、北条政子は従二位に叙された。

同年十二月二日、右京兆(北条義時)が霊夢により創建していた大蔵の新御堂に薬師如来像(運慶作とされる)が安置され今日供養が行われた。導師は荘厳房律師行勇、呪願は円如房阿闍梨遍曜、堂達は頓覚房良喜であった。施主(義時)とその際室(伊賀方)らが簾中に着座し、相州(北条時房)・式部大夫(北条泰時)陸奥次郎(北条朝時)が正面の広さ死に着座されたと記される。

 同月二十一日、将軍家(源実朝)が大臣は伊賀のため、明年正月に鶴岡(八幡)宮に参詣の御装束・御牛車以下の調度などが、また仙洞(後鳥羽)から下され、今日(鎌倉に)着いた。また(拝賀に)付き従う上達部の坊門亜相(忠信)以下が(鎌倉に参られるという。二十六日には二階堂行村が奉行し、御拝賀の供奉する随兵以下について審議が行われた。式部大夫(北条泰時)は御牛車に次ぐ随兵十人に名を記していた。

  

 『吾妻鏡』承久元年(1219:建保七年で四月の十二日に承久に改元)される。健保七年正月二十三日夕方から雪が降り、夜になると一尺余り積もったとある。その日、将軍実朝の内大臣拝賀に付き従うため、実朝室(西八条禅尼)の兄・坊門大納言忠信が京から鎌倉に到着し、その他の公卿、殿上人が鎌倉に下向した。宿所は北条義時の大倉邸が指定されている。翌二十四日、白雪が山に満ち、地に積もった。坊門忠清が御所に参り御台所(実朝室)に対面する。実朝の御前で酒宴が行われ遊興の春の一日を費やす。同月二十五日、昨夜、右馬権頭頼茂朝臣が鶴岡宮に参籠し、拝殿にて法施を行った時、一瞬眠ってしまい夢の中で子供が杖で鳩を撃ち殺し、その後、頼茂の狩衣の袖を打った。目を覚まし不思議に思った。今朝、八幡宮の庭で死んだ鳩が見つかり、また不思議に思って占いを行った結果、不吉と出る。

 同月二十七日条、「夜になり雪が降り出し二尺ほど積もる。実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参られた。酉の刻(午後六時頃)に御所を出発された。実朝が神宮寺の楼門に入った時、義時は急に真心が乱れ、実朝の御剣役を(源)仲章朝臣に譲り退出され、神宮寺で正気に戻られた後、小町の自邸に帰られた。夜になり神拝の儀式が終わり、しばらくして実朝が退室したところ鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の近くに隙を見て近寄り、剣を取りだして実朝を殺害した。その後、随兵等が馬で宮司に駆け付けたが(武田信光が先頭を進んだ)、仇敵(公暁)は見当たらなかった。」とある。『承久記』によると一の大刀は杓に合わせたが次の大刀で斬られ、最期は「広元やある」と述べて落命したと記される。数名の法師が伴ったとも言われ、義時と間違えて御剣役に変わった仲章も討たれた。

 

『吾妻鏡』では公暁が、「上宮の砌(みぎり)で別当の阿闍梨公暁が父の敵を討った」と名乗りを上げたと記載されている。『愚管抄』では名乗りはせず、公卿らが逃げて来るまで鳥居の外に控えていた武士たちは気が付かなかったと記載されている。『吾妻鏡』は、直ちに雪ノ下の公暁の本坊を襲い、その門弟・悪僧が立てこもり合戦になったが、そこにも公暁の姿はなかった長尾定景が子息・景茂・胤影らとともに先陣を争ったという。公暁は実朝の首を持ち後見である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の宅に向かい、そこで食事をするときも首を手放さなかったと言う。使者として弥源太兵衛尉(公暁の乳母子)を三浦義村に遣わし「今、将軍はいなくなった。私こそが関東の長にふさわしい。速やかに計らうように。」と伝えた。義村は、先君の恩を忘れていなかったので幾筋もの涙を流し、まったく何も言う事が出来ず、しばらくして「まずは拙宅にお越しください。ひとまずお迎えの兵士を出しましょう」と申した。その後、義村は北条義時に使者を出しこの事を告げた。義時は躊躇せず公暁を誅殺せよと命じた。義村は一族らを呼び集めたが、公暁は武勇に優れているため、簡単には討ち取れないとし、勇散な長尾定景他五名を討手に差し向けた。公暁は義村の使者が遅いため雪の中を一人で鶴岡宮の後方の山を登り義村邸に向かうが、途中で定景と遭遇し討ち手と戦うが定景に討ち取られた。公暁享年二十歳。また、義村邸の塀までたどり着き、乗り越えようとした所で討ち取られたとも言われている。実朝の首は『吾妻鏡』は見つからず、実朝の御鬢(びん)を棺の中に納められたと記されている。『愚管抄』では岡(山)の雪の中から実朝の首が発見されたと記されている。源頼朝以来幕府将軍を担って来た河内源氏棟梁の血筋は実朝の暗殺と公暁の死で幕を下ろした。

 

 公暁を討ち取ったのは長尾定景で、鎌倉氏の庶流であるが、頼朝が東国平定時、長尾為宗、弟定景が降伏した。彼らは岡崎義実の子息佐奈田義忠を討ち取った者である。その後、岡崎義実の預かりになり、当時、その際に仇討を行っても許された。しかし定景らは、その後読経のみの日を送りそれを見た義実は、頼朝に二人の恩赦を願い出て、それを許された。三浦義澄の嫡子義村の家人となっている。後の関東官令・上杉謙信(長尾景虎)の祖先であり、鎌倉市植木にある九成寺に長尾定景一族の墓標が残されている。この実朝暗殺は、鎌倉中に衝撃を走らせた。和田合戦で、将軍という権力の重みを知った御家人の武士達は、その後空位となる将軍不在は、不安を呼び起こし、再び秩序が乱れる事を恐れた。 

 三浦義村は公暁討伐の功により同年駿河守に任官している。亡き和田義盛が望んでいた任官であり、頼朝死後北条氏のみが担って来た職種であった。北条義時は和田合戦において命の縮まる思いをし、三浦一族の軍事力への脅威は続き、義時にとって和睦と懐柔の意味であっただろう。 ―続く―