建暦三年(1213)五月三日、巳の刻(午前十時頃)に和田・横山党が合流し、再び由比浦にて合戦が行われた。和田義盛は御所を襲うために再び鎌倉に突入するが、北条泰時、伯父の時房は陣を立て守る若宮大路で防戦した。町大路は上総八郎(足利)義氏、名越は源頼茂、大倉は佐々木義清と結城朝光等が陣を張っており、由比浦と若宮大路で激戦が続き。昨日同様、朝比奈義秀が奮戦し、先陣となり、泰時・時房等の軍勢を追い散らした。三浦義村の郎党・長尾定景の子息・景重と弟胤影は和田方の土屋義清、土肥惟平に出くわし、そこに胤影の舎弟・十三歳の江丸が長尾から急ぎ参上して兄の陣に加わった。義氏等はこれに感心し、江丸には矢を放たなかったという。土屋義清、土肥惟平、朝比奈義秀の三騎が轡を並べ四方の兵を攻めたため幕府側は退散する事数度に及んだ。昨夕からこの昼まで休みなく戦が続き兵士たちは力の限り尽くしたと言う。
北条泰時は、防戦に苦しみながら小代八郎行平を使者として将軍実朝の居る法花堂に遣わした。
「見方は多勢の頼みがある者の、決して凶徒の武力は侮れません再び賢慮を廻らしてください」。
実朝はたいそう驚き、政所に祇候していた中原(大江)広元を召し、
「凶徒が道々に満ちており、脅威となっています。警固の武士を賜わって参りますと」と返事をさせ、広元は御願文を執筆し、実朝は自筆の二首の歌を添えられ、八幡宮に報じられる。
この頃、土屋義清が甘縄から亀谷に入り、窟堂(岩屋堂)の前の道を経て、法華堂の仮御所に参上しようとしたところ、 若宮の赤橋あたりで流矢に当たり義清は落命した。その矢は北方から飛んできたために、神の鏑矢であると評判となった。従僕がこの首を獲り、義清が本願主である寿福寺に葬った。
(写真:鎌倉寿福寺)
夕刻の酉の刻(十八時頃)になり、和田義盛の四男・義直(三十七歳)が井具馬盛重に討たれ、父義盛(六十七歳)は「長年可愛がってきて義直の出世を願っていた。今となっては、合戦に励むのは無益である。」と非常に嘆き悲しみ、ついに大江能範の所従に討たれる。また五男・義重(三十四歳)、六男・義信(二十八歳)、七男・秀盛十五(十五歳)以下帳本七人も共に誅殺され、三男の朝夷名義秀は船を出し、五百の軍勢を六艘に乗せて安房国に退く。それぞれの大将も四散し逃走し勝敗は決した。和田常盛、山内政宣、岡崎実忠、横山時兼、古郡保忠、和田朝盛の以上の六人の大将軍は逐電した。
その後、義時は金久保行親と安藤忠家に死骸を実検させた。由比ガ浜の汀に仮屋を構え義盛以下の首を獲って集め、日暮れになったためにそれぞれ松明を取った。また義時と広元は将軍実朝の命により義盛の征伐した子細と京・幾内での肉親の討ち取りの御教書を京の佐々木広綱に送っている。
(写真:ウィキペディアより引用 和田義盛像、承久絵巻北条義時像)
勝敗が決したその夜、共に戦った多くの者たちがよすと規定に参上した。泰時は盃酒を来客に進められたが、
「飲酒は長くたとうと思う。その理由は、去る一日の夜、酒を酌み交わす会があった。翌日明け方(二日)に義盛が襲ってきたとき無理に甲冑を着て騎馬したものの、二日酔いにより朦朧としていたので、今後は酒を断とうと誓った。何度も戦った後、喉を潤すために水を求めたところ、武蔵国の住人の葛西浅清が小筒と盃を取り添えて勧めた。その時になって、以前の心はたちまち変わってこれを飲んだ。盃は(尾藤)景綱に与えた。人の性はその時々にて定まらない。よくない事だ。但し今後はそれでも深酒を好まないようにする」。と語り始めでは、飲酒を断つことを語るが、語り終わりには「今後は深酒を好まないようにする」と変えているのは、泰時の人間性を物語っている。
翌四日、古郡保忠・常忠兄弟は、甲斐国坂東山波加利の東競石(きそいし)郷二木で自害。横山時兼、和田常盛は、甲斐国坂東山賞原(つぐはら)別所で自害して果てた。時兼、享年六十一歳。常盛、四十二歳。翌四日、首は固瀬川辺りに晒され、その数総数二百三十四という。和田義盛に与した御家人の所領は没収され、それぞれの一族は没落または凋落した。幕府側では勲功の軽重が尋ねられ、波多野忠綱が、
「米町と政所で二度の先陣を切りました」と申した。米町の事は、さしあたり異論は無かったが、政所前の合戦については三浦義村が先人の旨を申し出たため、御所の南廷でそれぞれ激しく言い争う。北条義時は忠綱を人気のない所に招き、密かに言った。
「この度世間が落着した事は、全く義村の忠節による。それなので米町の合戦の先陣については異論無い以上、政所の前の先人の事はあの義村と争うのは現在の状況ではふさわしくない。穏便にしていれば、この上もない恩賞を与えられることは、疑いない」。
(写真:鎌倉和田塚)
忠綱が義時に申した。
「勇士が戦場に向かうからには、先陣を本意とします。忠綱はいやしくも家業を継いで弓馬に携わっています。何度でも先陣に進みます。一時の恩賞に心を奪われて、万代の名を汚す事は出来ません」。
そこで、実朝が事の真偽を知るために忠綱と義村を北面の藤御壺の内に召された。北条義時、中原広元、二階堂行光が広廂に祇候し、行光が奉行した。義村は紺村濃(今むら後)の鎧直垂を召し、忠綱は木蓮時の鎧直垂を召した。両人が簀子(すのこ)の縁座に座り、対決を行い、義村が申した。
「義盛襲来の最初に、義村が政所の前を南に急いで向かいました。矢を放った時、何もその前を飛ぶ者は有りませんでした」。
(写真:鎌倉和田塚)
忠綱が申した。
「忠綱一人が先陣を進み、義村は忠綱の子息経朝・朝定らを挟んで忠綱の後ろにいました。それなのに忠綱を見なかったと申すのは、盲目でしょうか」。そこでその時に戦った武士に尋ねたところ、皇后宮少進盛景・二階堂基行・金子太郎が答えた。
「赤皮威の鎧で、葦毛の馬に乗った武士が先陣でした」と。それは忠綱の事であった。しかし、同月七日の勲功の沙汰において忠綱は軍忠について不信は無い者の将軍実朝の御前で対決した時、三浦義村を盲目と称した事が悪口にあたるため、恩賞を与えられない事で罪科に準ずると決定され、恩賞は差し置かれている。
(写真:ウィキペディアより引用 北条義時像と花押)
同月五日には、和田義盛・横山時兼の謀叛の者の所領等が没収され勲功の恩賞として充てるという。また中原広元が、武蔵横山荘が与えられ、北条義時は山ノ内荘、美作守護、そして和田義盛の侍所別当を義時が後任として任じられている。北条泰時は、去る五日に陸奥国遠田郡の地を勲功の恩賞に与ったが、八日に思うところがあると言い、御下文を中原広元の途に託し辞退した。将軍実朝は「当然の恩賞であり、辞退すべきではない」と命じられたが、泰時の誇示は採算に及んだ。そこで泰時の考えを尋ねたところ、泰時は申した。
「義盛は主君に逆臣を抱いていませんでした。ただ相州(北条義時)を恨んで謀叛を起こしました。その時に防ぎ戦ったために、理由も無く御家人が多く死去しました。そこでこの所領は、その勲功の賞の不足分に充てられるようにしてください。私の父の敵を攻撃しただけなのでことさらに恩賞を受けるべきではありません」。世間では感嘆しない者はいなかったという。そして重ねて恩賞を受けるように命じられた。。しかし、さらにこの時与えられた伊豆国阿多見郷(熱海)の地頭職も、元走当山権現の神領であった事を知り、同権現に寄進している。 ―続く―