『吾妻鏡』承元四年(1210)八月十六日条に将軍実朝・尼御台所(北条政子)と御台所(実朝室)が馬場の儀式を見るため、密かに鶴岡八幡宮に渡り「流鏑馬・競馬終が終わり廟庭で相撲の菖蒲が行われた。相模太郎(北条泰時)の侍である岡部平六と犬武(五郎)とを召して、対決させたところ、岡部が負けた。…人々はこれを壮観だと評した。」と記されている。泰時が自身の家と家人を持った事が窺える。この年のこの記事以降に北条泰時が少しずつ『吾妻鏡』の記載に多く名が記されてゆく。
『吾妻鏡』建久六年八月十六日条では、流鏑馬の射手十六騎の一人として、十五番目に江間太郎(北条泰時)の名が残るが、それ以降に弓馬の儀式においての名は見られず、武芸よりも文才に優れていたのではないかと考えられる。
建暦二年(1212)二月十四日には、「武蔵国の国務について(北条)時房朝臣が盛んにする措置として郷々に郷司職を補任された。そうしたところ、匠作(北条)泰時が少士ばかり申されることがあったが、(時房は)「入道武蔵(平賀)義信の先例と通りに沙汰するよう命じられているので、そのように思っており、了承できません。」と事得られたという。内容は定かではないが、八歳違いの叔父に対して意見を具申している。
同年五月七日に泰時の異母弟で義時の前室)の子である次郎朝時が、御台所(実朝室)の女房として去年京より下向してきた佐渡守藤原親康の娘を好色にふけ艶書(えんしょ:恋文)を通わせたが容れられず、昨夜、夜が更けた後に密かに女性の部屋に行き誘い出した。この事で三代将軍実朝の怒りを蒙り、父・義時に義絶されている。そして朝時は駿河国富士郡に下向した。朝時は、正室であった姫の前との子で、嫡子として扱われていた形跡があるが、この件で継室・伊賀の方とに元久二年(1205)に生まれた正村が嫡子として有力視されるように見る事が出来る。また泰時は、この年に継室の安保実員の娘との間に次子・時実が生まれているが、生誕月は定かではない。
建保元年(1213)二月二日、(実朝の)側に仕える者の中かで、芸能に優れた者を選んで結番され、これを学問所番と称した。それぞれ当番の日は学問所を離れずに祇候し、それぞれその時々のお求めに応じたり、また和漢の古事を語り申すようにと言う。北条時房が秒行する。九人が一組となり一番から三番までの二十七人が選らばれた。泰時は一番筆頭に記され、九歳上の泰時が最も実朝に影響を与えた事は間違いないだろう。また八日に鶴岡八幡宮の神事で流鏑馬と競馬が行われ修理亮(北条泰時)が奉幣の御使者の任に就いており、幕府の祭りごとに検出されるようになった。
同月十五日に大きな事件が発覚する。千葉介成胤が一人の奉仕を生け捕る、北条義時に身柄を進めてきた。その法師は信濃国住人の青栗七朗の弟・阿静房安念と言った。信濃国住人泉親平が一昨年から謀叛を企おり、その謀叛は尾張中務丞が養育している故大将軍源頼家の若君・千寿丸(栄実)を大将軍として北条義時の殺害であった。阿静房安念は、謀叛の合力を得るために成胤の宅に向かったという。安念の白状により謀叛の者が諸所で生け捕られた。市村近村・籠山次郎・宿屋重氏・上田平三親子三人・園田成朝・狩野小太郎・和田義直・義重・胤長・渋谷兼盛・磯野小三郎が御家人諸士に預けられた。市村近村を北条泰時が預かり、生け捕られたこれらの者から張本が百三十余人、一味は二百人に及ぶという。それらの一味を捕らえて鎌倉に進めるように諸国守護人らに命じられた。園田朝成が預けられさきの上条時綱の宅から逐電してしまう。朝成は敬音という祈祷師の僧の坊に行き事情を話すと敬音は勧めて言った。「この度の叛逆した者は皆、四方に張り巡らされた網を破る事は出来まい。今、いったん逃げ出したとはいえ、きっと生涯安堵することは難しかろう。出家を遂げるのが良い」。成朝は、「謀叛に与したことは確かです。但しその時々の状況によって逃亡するのは、昔から名誉ある将師もしてきたことです。何もせずに出家を遂げては、まことに思慮がないかのようです。とりわけ数年来、受領を望む思いがありました。その目的に達することなくい髪をおろすことはできません」。
僧敬音は大笑いして、もう何も言わなかったという。その後、少し酒盛りをして、夜半になって退出すると朝成は行方をくらました。朝成が逐電した事が露見し、敬音が召し出されると、尋問に対し成朝の言い分を言上する。将軍実朝はこれを聞き、受領を望む成朝の思いに感心され「速やかに朝成を探し出して恩赦しよう。」と命じている。渋谷兼守を預かった安達景盛に二十五日の明け方に兼守の誅殺が命じられた。兼守は伝え聞き、悲しみのあまり、十首の和歌を荏柄者の聖廟に奉納する。翌二十六日に工藤祐高が昨夜荏柄社に参籠し、兼守の奉納した和歌を見つけて御所に持参した。将軍実朝は和歌を大切にしていたため、その和歌に感心して兼守の罪を許された。
同年三月二日には、この度の反逆者である泉親平が鎌倉雪の下の違(たがえ)橋に隠れているという風聞があり、工藤十朗を遣わし召された。親平は直ちに合戦を行い、工藤と郎従数人殺害して逐電し、その後の親平の行方は知れなかった。
『吾妻鏡』建保元年(1213)三月八日条、「鎌倉の内で兵乱が起こると諸国に風聞があったので、遠近の御家人が(鎌倉に)群参し、その数は幾千万とも知れなかった。和田義盛は、このところ上総国の伊北庄にいて、この事で急ぎ参った。今日、御所に参上して(実朝が)対面された。その機会に、あるいは積日の功労を考え、あるいは子息義直・義重の処分の事を愁えた。そこで今改めて(実朝は)感心され、審議を経ずに父(義盛)の度重なる勲功に免じて、その二人の子息の罪を許された。義盛は老後の面目を施して退室したという。
(写真:ウィキペディアより引用 和田合戦北条泰時像、花押)
同月九日条、「和田義盛が今日また御所に参った。一族九十九人を引き連れて、御所の南庭に列座した。これは因人の胤長(和田義盛の弟和田義長の嫡男。義盛の甥)を赦免するよう申請するためである。(中原)広元朝臣が取り次いだ。しかしこの胤長は、今度の首謀者であり、特に策謀をめぐらしていたと聞き及ばれていたので、許されず、すぐに(金窪)行親と(安東)忠家の手から山城判官(二階堂)行村に引き渡し、さらに閉じ込めておくよう、相州(北条義時)が(実朝の)御意向を伝えられた。この時胤長を後ろ手に縛って、一族が列坐する前で引き渡し、行村が受け取った。義盛の逆臣はここに由来するという」。―続く―