坂東武士と鎌倉幕府 百二十二、執権北条泰時 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 尼将軍北条政子は、弟・北条義時亡後、次期執権を北条泰時と時房の二人体制を擁立させ、反勢力となりうる伊賀氏を排除した。また、義時の後妻の伊賀方・伊賀氏が権力を有する事で、政子の政的立場の低下を憂慮し、北条政子・大江広元・北条時房による策謀ではないかと考える事も出来る。泰時は政子の画策には乗らず事態を鎮静化させた説もある。「伊賀氏の変」が冤罪であった可能性も高い。本来政子は頼朝に嫁ぎ、北条家を離れた者である。義時の姉とはいえ北条家の家督問題は義時の後妻・伊賀方が中心となり解決されるべき問題であり、政子の介入は不当であり、道理に合っていないと言わざるを得ない。そこまで泰時の執権の擁立に格別な意図があった。

 

写真:ウィキペディアより引用 北条政子像、大江広元像)

 私見であるが、北条義時は、承久の乱後の二代執権として戦後処理に奔走する中、三年で死去した。義時は幕府の方向性は示しつつあったが、義時自身が政務の中心として立つことを考えており、自身の後継に就く嫡子を定めていなかったことは事実である。北条政子は、北条執権体制を維持しつつ東国及びこの国の安定を考慮した上で「伊賀氏の変」という政的画策を強行したと考える。この時期の文献資料等を参考にすると北条泰時が義時の後を継ぐのに最適であった事は言うまでもない。しかし、後に勢力を拡大させる要素のある伊賀氏に対し政子は強行に出た。伊賀氏にとっては、大変な冤罪である。

『吾妻鏡』は以前に記載したように北条氏により後に編纂され、北条義時・子息の泰時の偉業について多く記載されており、特に泰時についてはその傾向が多大である。しかし、北条泰時の時代は争乱もなく北条執権体制を強化、そして北条得宗家、という位置も確立させ、御成敗式目という江戸時代まで応用された武士の法的規範を制定した。慈円が『愚管抄』で「武者の世になってしまった」との記述は、北条泰時により武士による司法、立法、行政により完成されたと言うべきである。

 

 『吾妻鏡』元仁元年(1124)九月五日条、故奥州禅室(北条義時)の御移籍の庄園を男女の賢息に配分された注文(内容を記載した文書)を武州(北条泰時)が二品(政子)から賜った。(泰時は)方々に廻覧し「それぞれの所存があれば事情を申されるように。そうでなければ御下文(くだしぶみ)を申請する。」と伝えられた。皆は歓喜した上、全く異議は無かったようである。この事は泰時の下向の最初に内々にこれを配分され、密かに政子にご覧に入れたところ、(政子が)ご覧になった後に仰った。「大概はよろしいでしょう.但し嫡子(泰時)の分がたいそう不足しています。どうした事でしょう」。泰時が申された。「執権を承った身として所領等の事はどうして強いて競い望む事がありましょうか。ただ舎弟らに与えようと思います」。政子は頻りに御感涙をながされたという。そこで今日、(配分を泰時が計らって披露したという。また故前奥州禅室(義時)は、生前は京官・国司共に任を去られていたので常の例によってただ前奥州と称していたが没後の今となっては右京権大夫と称するよう定め下されたという。子の刻(午前零時頃)に三浦駿河前司義村の西御門の家が焼亡した。(火は)他所には及ばなかった。この間(鎌倉の)南方が少々騒動したという。

 

 同月九日条、陸奥守(足利)義氏が新恩を与えられた。美作国新野保以下数ヶ所という。

 同月十三日、晴れ。戌の刻に螢惑星が南斗に接近したと司天が申した。

 同月十五日、鶴岡放生会の式月が延期されていたが、今日行われた。相州(北条時房)が若君(三寅、後の頼経)の御奉幣(ほうへい)の御使者であった。(時房は)束帯(平安期以降、男子の正式な服装)・帯剣であったという。

 同月十六日、寅の刻に太白星が辰星に接近したという。今日、流鏑馬以下の神事がいつも通り行われた。相州(北条時房)の参宮は昨日と同じであった。三浦駿河前司(義村)・出羽守(中条家長)・小山判官朝政が馬場を警備した。

 同月十七日条、卯の刻に自信があった天変の御祈祷などが行われた。

 

 同年十月一日条、今日、武州(北条義時)が駿河前司(三浦)義村・小山判官朝政・出羽守(中条家長)以下の宿老を招いて盃酒を勧め贈り物に及んだという。

 同月十日条、宰相中将(一条)実雅は越前国に配流されることが決定されたという。

 同月十六日条、天変の御祈が行われ、島津左衛門慰忠久が奉行した。(忠久は)また一方の供料を進上したという。…

 同月二十八日条、安房国麻殖保の預かりどころである左衛門尉清基と地頭の小笠原太郎長経とはこのところ相論する事があり、今日、両国司(北条泰時・時房)の御前で(訴訟の)対決を行った。清経が申した。「当保は(平)康頼法師の功績によって右大将家(源頼朝)から拝領し、今まで相伝領掌してきたところ、長経が謀叛人跡と称して賜りました。正しい道理ではなく、速やかに返付していただきたい」。長経が申した。「清基は去る承久三年の兵乱の時、院(後鳥羽)に祇候し腹巻をつけて官軍に加わっていました。その上、自宅から和田新兵衛尉朝盛法師が出立して戦場に向かいました」。清基が重ねて申した。「伯父の左衛門慰仲康と朝森入道は盟友です。そこで対面しただけでまったく同心しておりません」。そうしたところ、承久の兵乱の頃に清基が阿波国の守護人佐々木弥太郎判官高重に遣わした文書には「男は一人であっても御大切であり、麻殖の人々があなたに付き従ったのは神妙(立派な事)です。」と記されていた。その文書がにわかに出現したので(泰時・時房の)ご覧に入れたところ逆説は疑いないと決定され、清基の訴訟は退けられたという。

 同月二十九日条、晴れ。宰相中将(一条)実雅が京都で解官され越前国に配流されたという。

 

(写真:鎌倉 寿福寺)

 同年十一月九日条、亥の刻(午後十時頃)に地震があった。今日、伊賀四郎左衛門尉朝行・同

六郎右衛門尉光重が流刑により鎮西に赴いたという。

 同月十三日、申の刻(午後四時頃)に雷鳴があり激しく雨が降った。

 同月十五日条、「申の刻(午後四時頃)に地震があった。

 同月十八日条、晴れ。武州(北条泰時)が故右京兆(北条義時)の一周忌の御追福のため伽藍を建立された。今日、立柱が行われ、右近将監(尾藤)景綱が奉行したという。

 同年十二月二日条、晴れ。武州(北条泰時)は執権として殊に政道興行の志を顕すため明法道(律令下の大学寮における四道の一つで律令を専攻する学科)の目安(読みやすくするために箇条書きにした文書)を今朝から毎朝ご覧になるという

ここで、明確に北条泰時が執権として記載されている。一説に泰時は執権複数性を意図して時房も執権に就任させたとする説。また、時房の執権(連署)就任は北条政子と大江広元の強い意向によるもので泰時の意向ではなかったとする説もある。ただ、執権複数制により後に対立して争乱を引き起こす可能性もあった。泰時と時房は対等な関係であったが、実質的な権限は執権が優越した。幕府公文書において執権・連署の連名書による配布が行われる事は、泰時が合議制を尊重し、心情としての反映であったと窺うことが出来る。また明法道の目安は、泰時の法を伴う秩序の安定を「御成敗式目」の制定に関与したのだろう。 ―続く