坂東武士と鎌倉幕府 百二十、尼将軍政子 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』の執権北条義時の死から子息義時の執権就任までの時期、条記には星の表記による吉凶が多く用いられている。元仁元年(1224)七月四日条、晴れ。今朝、太白(金星)が井鉞〔(せいえつ:二十八宿の南方第一宿の井宿と、その西方の星の鉞(えつ、まさかり))に重なったと司天らの報告があった。今日(義時の)二十一日目の御仏事が行われた。導師は信濃法眼道禅

  

 同五日条、鎌倉中が騒動した。(伊賀)光宗兄弟が何度も駿河前司(三浦)義村の素を往還した。これは相談する事があるのだろうと人は怪しんだ。夜になって光宗兄弟は奥州(北条義時)の御旧跡〔後室(伊賀氏)の住居〕に集まり、この事で心変わりはしないとそれぞれ誓った。ある女房が密かにこれを聞いて、密談の初めからは知らなかったが、様子が不振であると武州(北条泰時)に告げた。泰時は全く動揺する気配がなく、「光宗兄弟らが心変わりはしないと契ったのはまことに神妙である。」と仰ったという

 同六日条、今朝、太白が井中(井宿)に入り、戌の刻(午後八時頃)に月が火星に接近した〔その距離は一尺五寸の所という〕

 同九日条、戌の刻に月が心中央星(さそり座のアルファ星)に接近したという。

 同十一日条、国土安全のため二品(政子)が三万六千神祭(陰陽道で災いを祓う祭り)を行われた。連夜の天変による。(安倍)泰貞がこれを奉仕し、大善之助広仲(藤原頼経、後の四代将軍源頼経の近臣十八日の御仏事が行われた。導師は荘厳房律師行勇」。御仏事が行われた。導師は荘厳房律師行勇

  

 同十三日条、天変について司天が告げたところ重大であった。そこで三万六千神祭・天地災変祭・月曜祭・螢惑星祭〔けいこくしょうさい:螢惑星(火星)を祀る陰陽道の祭祀〕〕以下の御祈祷が行われ、また結願(けちがん)したという

 同十七日条、晴れ。近国の者が競って(鎌倉に)集まり、家々に居を占め、今日の夕方たいそう騒がしかった。子の刻に二品(政子)は女房駿河局(政子に仕える女房)のみを御供として潜かに駿河前司(三浦)義村の宅に出かけられた。義村が特に恐縮すると、政子が仰った「奥州(北条義時)の死去により武州が(鎌倉に)下向した後、人が多く集まり世が静まらない。陸奥四郎(北条)正村と式部丞(伊賀)光宗らが頻りに義村のもとに出入りして密談する事があるとのうわさがある。これは何事か、理解しがたい。あるいは泰時を滅ぼして意のままに事を行おうというのか。去る承久の乱の時、関東の運命が治まったのは天命ではあるはいえ、半ばは武州(泰時)の功績であろう。およそ奥州は数度の混乱を収めて戦いを鎮めてきた。その後を継いで関東の棟梁となるべきは武州である。武州が入なければ諸人はどうやって運命を久しくできようか。正村と義村は親子のようなものであり、どうして談合の疑いが無い事があろうか。両人が無事であるように諫言すべきである」。義村は知らないと申したが政子はなお納得せず「正村を支えて夜を乱す企てがあるのか否か、和平の計略をめぐらすのか否か、はっきりと申せ。」と重ねて仰った。義村が申した。「正村は全く逆臣は無いでしょう。光宗らには考えている事があります」。強く制止を加えると(義村)が誓ったので帰られたという

 

 同十八日条、駿河前司(三浦)義村が武州(北条泰時)にお目にかかって申した。「故大夫(北条義時)の御時、義村は微忠を励んだので、(義時は)御懇志を表わすために四郎主(北条正村)の御元服の時、儀村を加冠(元服時に冠をかぶせる役で儀式で最も重んじられた)の役に用いられ、愚息(三浦)泰村が(泰時の)御猶子(ゆうし:養子よりも簡略化され、相続権が無いもの)となりました。その御恩を思うと、あなたと正村とのお二人の事についてどうして好悪を存じましょうか。ただ願う所は世の平安です。(伊賀)光宗はこのところいささか計略する事があるようでしたが、義村が諫言を尽くしたのでとうとう帰服しました」。泰時は喜びもせず「私は正村に対し全く害心を抱いていない。何事によって敵対する事があろうか」と返答されたという

 

 北条政子と三浦義村、泰時と義村の信頼関係は特に強かったと考える。しかし、この会話による執拗な政子と、動じない泰時の心情を伺い見ることが出来る。また、政子が頼朝以来の三浦の軍事的勢力への脅威もあったのだろうが、泰時の道理という考えの下で対応を示している。この伊賀氏の変は、去る健仁三年(1203)九月十五日条の「千幡の乳母阿波局(政子・義時の同腹の妹)が時政の後妻・牧御方に悪意があるとして時政邸においておくことは危険であると政子に告げた。政子は三浦義村に相談し、すぐに江間四郎(北条義時)、三浦義村・結城朝光を派遣し千幡を迎え取られた。」とする記載がされているが、実際に牧氏の変が存在したか疑問を呈する。牧氏事件と本質的に同じ構造を示しており、追放された北条時政が三浦義村、牧氏が伊賀氏、牧方が伊賀方であった。三浦義村は策略家であったように見られるが、幕府の安定の中での自信の保身を堅持している。畠山重忠の乱、和田合戦、実朝暗殺後に新将軍に親王将軍の擁立が頓挫した中、摂関家将軍擁立時において頼朝の遠い血縁関係がある三寅の擁立の提言を示している事、承久の乱等から義村の立ち位置を証明することが出来る。義村は時政のようにはならず、伊賀の変で自身を境地から脱した。三浦義村が北条正村の執権擁立に対して何も得る物が無い。三浦義村が北条に対する謀反があるとするなら和田合戦、実朝暗殺、承久の乱において官軍に与したと考えられるからだ。北条政子が、泰時の執権就任を望み、執拗に三浦義村を責め、泰時の敵対勢力を排除しようとの試みであったと考える。

 

 『吾妻鏡』元仁元年七月五日の「ある女房が密かにこれを聞いて、密談の初めからは知らなかったが、様子が不振であると武州(北条泰時)に告げた。」という話で、従来の事件に対しての話の出所が明確な場合は真実性に富み、「ある女」としての出所が不明瞭の場合は信憑性に欠ける面もある。十七日の北条政子の三浦義村への抗議は、『吾妻鏡』を読む上で従来と異なり、異質であり、伊賀氏の変事態が信憑性に欠ける記載と思わざるを得ない。 ―続く