坂東武士と鎌倉幕府 百十八、六波羅探題設置 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)の承久の乱で北条泰時は、後鳥羽院の官軍を打ち破り入京した。戦後の大きな変革である従来の西国・京都近辺の御家人の管理・統率、洛中の警護・訴訟、そして朝廷と幕府の間の連絡を担うために京都守護を改組して京都六波羅に北と南の幕府出先機関を設置した。鎌倉幕府末期には六波羅探題と名称が変わり、この時点では六波羅と称している。

 この六波羅の地は、寿永の乱以前は平家の洛中での本拠であった。伊勢平氏の本拠が伊勢国であったため、また東国への交通の要衝路になるため平家の平忠盛・清盛親子が洛中での本拠をこの地に定めた。寿永の乱で平家が都落ちし、その際に焼失させている。乱後、六波羅は源頼朝に与えられ、京都守護となった北条時政が庁舎を六波羅に置き駐留した。頼朝は六条堀川に河内源氏代々の館を持っており、また時政以降の京都守護は公家や京に在住が長い武士が就いていたため各自の屋敷を持ち、その地に庁舎を構えている。この地は、自ら京に自邸を持たない東国武士の御家人の拠点になった。

 

 先述した通り六波羅探題は、鎌倉幕府後期に名称が付き、承久の乱後、京都守護と最も違う点は、戦後処理と朝廷の監視機関として付加されたことである。六波羅にて洛中の六条以北に北条泰時、南に北条時房が任に就いた。当時は、北南に優劣はなく、戦後処理を両命で遂行している。『吾妻鏡』等で何時からかは明記されていない。北条泰時が京に残り、承久の乱後の戦後処理を行っている。在任期間は貞応三年(1224)までで、その後、子息の時氏が寛喜二年(1230)まで、泰時の異母弟・極楽寺流の重時が寛元五年(1247)まで就き、その後一時、就任社のいない時もあったが鎌倉幕府滅亡時まで続いている。南方も同様に時房が京に残り元仁二年(1225)まで、その後時房の長子時盛が仁治三年(1242)まで就いているが、度々任ぜられない期間が存在している。後に北が上席とされ、鎌倉に帰還した際に連署や執権に就く者が出た。

 

 京都守護の時代には検非違使の存在が大きく、京都の治安維持は検非違使が役目と考えられ、御家人に対する治安維持は京都守護と役割を分けていた。しかし承久の乱で京都周辺の北面・西面の武士等の軍事貴族の解体、また検非違使の任用が低下した。後の天福元年(1233)八月十五日に出された鎌倉幕府追加法六十三条では関白九条教実と探題北条重時の間で協議され、洛中の強盗・殺人については検非違使庁と共に沙汰を行うこととする。また文暦二年(1235)七月二十三日に出された追加法八十五項では武士が関与しない刃傷・殺害については検非違使庁の沙汰とし、京都警護に関しては基本的に朝廷及び検非違使庁の責任とすることが示された。幕府にとっても京都の警護は経済的に維持費もかさむため警察権と軍事権の分担であると考える。しかし、朝廷においてもその負担は大きく嘉禎四年(1238)二月二十六日には、上洛した将軍九条頼経が検非違使別当を任じられ、三月七日には辞任している。それを受ける形で篝屋(かがりや)が設置され、六波羅探題に管理が任され警護の責任を回避する事が不可能になった。

 探題は執権・連署に次ぐ重責とみなされ、伝統的に北条氏一族の将来有望な人材が選任され、鎌倉帰還後には執権・連署に着く就く者がいた。幕府の組織として執権、連署、探題、その下に引付頭人、評定衆、引付衆、奉行人と順列されるが、六波羅探題もそれらの下部組織がおかれた。

  

この時期鎌倉では、『吾妻鏡』によると不吉な兆しが多く記されている。

 『吾妻鏡』貞応元年(1222)五月十二日条に申の刻(午後四時頃」に大地震。六月には日照りが三十日に及んだ。

 貞応二年(1223)九月一日条、今朝、雨が激しく降り、日中になって晴れた。未の二刻(午後二時)に日蝕があって正現した。三の蝕という

 同二日条、戌の刻(午後八時頃)に大白星(金星)が歳星(木星)に二尺七寸の距離まで接近した。。貞応元年、二年と天災及び怪異が鎌倉を襲っている。

 同月三日条、戌の刻(午後八時頃)に月が大白星(金星)に三尺の距離まで接近した。」。

 同月四日条、月が心前星(さそり座シグマ星)に接近した

 同月五日条、晴れ、横町当たりの下女が三つ子を産んだという。「女性が三つ子を産むと、官庫から衣食を与えられて養育します。これは国司に記されています」と故実に通じているものが申した。そこで二品(政子)は国雑色三人を遣わして、それぞれ養育するようよくよく命じられた。そのうえ、母親に衣食を同じく与えられたという。今日、御祈祷を行われるよう奥州(北条義時)の御方で内々にその審議があった…このところ続けて転変が出現しているためである

 同月六日条、下女が生んだ三つ子がいずれも夭折した

 

 九月二十六条には晴れ、戌の刻(午後八時ころ)大地震と簡潔にきされ、鎌倉を大地震が襲った。

 同年十二月三日条晴れ丑の刻(午前二時頃)に奥州(北条義時)の御邸宅で光物(光を発する怪異)があったそこですぐに大倉薬師堂(現、二階堂の覚園寺薬師堂)で御祈祷が始められ、新馬を鶴岡八幡宮に奉納された。また七座の招魂祭(死者の霊魂を招き寄せて弔う陰陽道の祭祇、魔除け)がおこなわれるという

 貞応三年(1224)六月十二日条、辰の刻に前奥州(北条)義時が病気になった。このところご体調を崩していたが特別なことはなかった。しかし今度はすでに危篤である。そこで陰陽師(安部)国道・知輔・親職・忠業・泰貞らを呼んで卜筮(ぼくぜい)が行われた。「大事には至りません。戌の刻には快方に向かわれるでしょう。」と一同が占い申した。しかし御祈祷が始められた。天地災変祭に坐〔国道・忠業〕…ただし時を追ってますます危篤という」。

 

 同十三日条、雨が降った。前奥州(北条義時)病気はすでに臨終に近づいていたため駿河守(北条重時)を使者としてこのことを若君(三寅、後の頼経)に御方申された。恩許があって(義時は)今日の寅の刻(午前四時頃)に出家され、巳の刻(午前十時ころ)にとうとう亡くなられた〔御歳六十二歳〕。このところ脚気(かっけ:足の感覚が麻痺し脛にむくみができる病気)の上に霍乱(かくらん:暑気あたりによって起きる諸病の総称)が重なっていたという。昨日の朝から続けて弥陀の宝号を唱えられ、終焉の時まで全く緩むことがなかった。丹後律師(頼暁)が善知識としてこれを進めた。(義時は)外縛印(げばくいん)を結び念仏数十回の後に死去した。まことにこれは正しい往生と言うべきであろうという。午の刻に飛脚を京都に遣わされた。また後室(伊賀氏)も出家し、荘厳房律師行勇が戒師となったという。。脚気はビタミンB1の不足で起こる疾患である。病状として、初期に食欲不振、他に全身のだるさ、特に下半身の倦怠感が生ずる。次第に足のしびれやむくみ、動悸、息切れ、感覚の麻痺などの症状が現れ、さらに進行すると手足に力が入らず寝たきりとなる。そのまま放置すると心不全が悪化して死に至る事もあり当時としては、不治の病であった。しかし『吾妻鏡』に記述されている内容では、脚気の病状と異なる。 ―続く