坂東武士と鎌倉幕府 百六、承久の乱 北条政子の口説 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 後鳥羽院の義時追討宣旨が送られ、鎌倉幕府内の対応と経緯は『吾妻鏡』が簡潔に記載されている。詳細は『承久記』の「慈光寺本」、「古活字本」に頼らざるを得ないが、『吾妻鏡』承久三年(1221)五月十九日条、北条政子の口説を続いて記載する。

 

相州(北条時房)・武州(北条泰時)・前大官令禅門(覚阿:大江広元)・前武州(足利義氏)位下が集まった。政子は御家人らを御簾の側に招き、秋田城介(安達)景盛を介してよくよく指示して言った。

「昔、心を一つにして承るように。これが最後の言葉である。故右代将軍(源頼朝)が朝敵を征伐し、関東を草創して以後、官位と言い、俸禄と言い、その恩は既に山よりも高く、海よりも深い。(その)恩に報いる思いが浅いはずは無かろう。そこに今、逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が下された。名を惜しむ者は速やかに(藤原)秀康・(三浦)胤義らを討ち取り三代にわたる将軍の遺蹟を守るように。ただし院(後鳥羽)に参りたければ今すぐに申し出よ」。

群参していた武士は命に応じ、只涙に暮れて重文に返答できず、ひたすら命を捨てて恩に報いようと思った。まことに「忠臣は国の危うい時に現れる。」とはこの事であろう。武家が(後鳥羽)御意向に背く事になった原因は舞女亀菊の申請により摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止するように二度の宣旨が下されたところ、義時が承諾せず、これは、

「幕下将軍(源頼朝)の時の勲功の恩賞を受けて補任したものは、特に過失の長内の更迭する事は出来ません。」と申したので、(後鳥羽の)お怒りが激しかったためという。

 

晩鐘の頃に義時の館で時房・泰時・広元・駿河前司(三浦義村)城介入道(覚知:安達景盛)らが評討議を重ねた。意見が分かれたが、結局は足柄・箱根の二つの道の関所で固めて待ち受けることになったという。しかし大官令覚阿(広元)が語った。

「議論の趣旨はひとまず適当です。ただし東国武士が心を一つにしなければ、関を守って時間が経過するのは、かえって敗北の原因になるでしょう。運を天にまかせて速やかに兵を京都に派遣されるべきです」。

義時は両方の意見を政子に申したところ、政子が申された。

「上洛しなければ、絶対に官軍を破る事は出来ないでしょう。安保刑部丞実光以下の武蔵国の軍勢を待って速やかに今日に参るべきです」。

この言葉に従い軍勢を上洛させるため、今日、遠見・駿河・伊豆・甲斐・・相模・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの国々に京兆(義時)の奉書を伝え、一族らを率い(て出陣す)るよう家々の長に命じた。その奉書の文面は、

「京都より坂東を襲撃するという風聞があったので、相模守(時房)・武蔵守(泰時)が御軍勢を率いて出陣する。式部丞(北条朝時)は北国に向かわせる。この事を速やかに一家の人々に伝えて出陣せよ

 

 『吾妻鏡』では安達景盛に代読させているが、『承久記』、『梅松論』では政子本人が演説したとされる。また『六代勝事記』においては政子・義時が諸士に伝えている。

 『吾妻鏡』同年五月二十一日条、午の刻(午後時零時頃)に一丈大夫頼氏が京都から鎌倉に下向し(去る十六日に出京したという)、二品(政子)の御邸宅に到着した。宰相中将(一条信能)以下の一族は多く院(後鳥羽)に祗候したが、一人(頼氏は)旧好を忘れずに急ぎ参ったという。政子は深く感じて喜び、京都の情勢を尋ねると、頼氏は詳しく述べた。

「先月より洛中は静まらず、人々が恐怖を感じていたところに、(後鳥羽は)十四日の夕方に(大江)親広入道を召し、また右幕下父子(藤原公経・実氏)を幽閉されました。十五日の朝、官軍が争うように蜂起し、高陽院(かやのいん)の書門を警護しました。およそ千七百余騎といわれ、内蔵頭(藤原)清範が子の軍勢の着致(ちゃくとう:着致帳、駆け付けた武士達の名前手勢を書き留めた文書)を記しました。その後(藤原)範茂を御使いとして新院(順徳)を迎い入れられ、(順徳の)御幸がありました。範茂卿と同じ車でした。その後、土御門院(烏帽子・直垂。かの卿二品(藤原兼子と同じ車)・陸上宮(雅成親王)・冷泉宮(頼仁親王)らがそれぞれ密かに高陽院殿にはいられました。

 

 同日、大夫尉(大内)惟信・山城守(佐々木)広綱、廷位の(三浦)胤義・(佐々木)高重らが勅命を承り、八百余騎の官軍を率いて(伊賀)光季の高辻京極の家を襲撃し合戦しました。事態は急であり、光季と子息寿王冠者光綱は自害し、宿所に火を放ちました。南風が激しく吹いていたので日は燃え広がり数十町(姉小路から東洞院)に及びました。申の刻(午後四時頃)に紅葉院殿に(仲恭)の行幸があり、徒歩によるものでした。摂政(藤原道家)が供奉し、近衛将一、二人と公卿がわずかに参りました。賢所(かしこどころ:三種の神器の神境)も同じく移されました。同じ時に六角西洞院で火が起こり、閑院の薨去に及びそうになったので非難されたのです。また高陽院殿で御修法が行われ、仁和寺宮道助(入道親王)と良快僧正以下が奉仕し、神殿の御所を壇上としました。

 

 『承久記』「慈光寺本」では、京都守護伊賀季光を誅殺した軍勢が一千余騎と記され、光季配下の武士が八十五騎で、自分は最後まで戦って討死する覚悟であるが命を惜しいものは逃げるよう伝える。これを聞き半数以上が逃亡し、残った者は政所ノ太郎・治部次郎ら精鋭の武士二十九騎と光季と十四歳の次男光綱親子合わせ三十一騎であった。逃亡したものは、官軍に囲まれた京から抜け出し、鎌倉へ早急にこの知らせを確実に届けるための思惑だったと考える。光季は元服した十四歳の子息・光綱に「敵の目をくらまし、地理に詳しい者七・八人と落ちるよう」に命ずるが、「弓箭取る者の事として十四・五歳になりますが、敵に遭い、親が討たれん処で死なず、幼いとはいえ人は許しません。親を捨てて逃げたる臆病者として見られるのは恥ずかしく思います。」と親子共に残り戦った。しかし襲撃は激しく、光季は、子息・光綱を他人の手で殺させまいと思い、我が手で殺すぞと言い放ち、首を掻き切り、光綱の骸を炎の中に投げやる。自身も念仏を唱え腹搔切り、炎の中の光綱の骸に重なったという。また『承久記』「慈光寺本」では、東国に院宣を下したのは武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の八名であったと記される。この八人の中には在京経験が多く後鳥羽院との接点がある者、同族内での競合・対立する者、幕府に影響力のある重臣の御家人達で、この中で一人でも後鳥羽院に与する者が出ると幕府に混乱を与える絶大な効果を発揮したと考えられる。そして、後鳥羽院は、この院宣を過信した。この院宣は、届けられることはなかった。 

 

 後鳥羽院は、院に近いとされる御家人の清和源氏義満流平賀氏の一族の大内惟信、清和源氏光政流の山田重忠、下総横山党の小野盛綱、近江源氏の佐々木広綱を味方につけ、三浦胤義に兄である三浦義村に日本国惣追捕使を約束する。このように幕府御家人等が後鳥羽院に与した事から、官宣旨を出すことにより兵力の増員確保が出来ると楽観的なものだった。武勇に優れた院ではあるが、実戦経験は無く、治承・寿永の乱後も奥州合戦、比企の乱、畠山重忠の乱、和田合戦など多くの合戦を行った東国武士の力量と彼らの本質を見定めることが出来なかったと考える。 ―続く