平安末期から当時の内裏造営には、保元二年(1157)の大内裏、建暦二年(1212)の閑院内裏があった。それに比べると今回の承久元年(1219)三月十三日の源頼茂による内裏焼失のため造営宣旨が「鎌倉遺文」から承久元年十月に下されている。『玉蘂(ぎょくずい:九条道家の日記)』によればから事始めには、承久二年(1220)三月二十二日に事始めが行われ、かなりの期間がかかった。保元の大内裏の造営は事始めから七か月半を要し、健暦の閑院内裏には七か月であった。しかし承久元年の内裏造営には大臣の視察や天皇観光の記録がなく、他の資料を総合的に見たところ承久二年十二月に完了したと思われ、ほぼ十四ヶ月である。その遅れの要因として、保元の造営の際に「保元之免除証文」を発給された地や後鳥羽の近臣である有力者卿二位・尊長の口利きで北野社・延暦寺・円勝寺・最勝四天王院等、また、新たに畿内中心の有力寺社が免除認定を受けた。他方、それらを有する事のない公卿・武家・寺社は予想以上に強い反発を示し、その宣旨に対し拒否し始める。特に幕府方の北陸道の越後守護・北条義時、加賀守護の義時次男・朝時らの影響で地頭が造内内裏役拒否に影響したと考えられる。
(写真:京都御所)
承久元年から二年には、鎌倉においても鎌倉の大火、旧実朝邸の焼失、窟堂周辺と大町以南の火災により焼失、七月には、鎌倉中の民家が、近年類を見ない風雨水害により民家が倒れ、洪水により流され河川近くに住んでいた者が多数死亡している。京においては、承久二年の四月に清水寺本堂焼失、五月に内裏の陽明門焼失、祇園社焼失等の火事が起こった。幕府にとっても鎌倉の修復を優先せざるを得ず、内裏造営の協力は、後回しになったと考えられる。そして京も度重なる火災焼失の為に内裏の造営が停滞した。しかし後鳥羽院は、建暦二年(1212)の閑院内裏造営に協力した実朝の幕府との対応の違いに苛立ちを募らせたようで、造営をいったん中止し造内裏事業所を解散させた。これは、内裏造営の遅延は幕府が宣旨の命に従わない事に対し、まず統制を行う為に標的を幕府執権北条義時に定めたと考える。
(写真:京都御所)
承久二年十二月一日、鎌倉では大倉の邸宅の南面に御簾を垂らし、若君(三寅、のちの頼経)の着袴(ちっこ)の儀式が行われた。翌二日に鎌倉で地震があり、同じ頃に永福寺内の僧坊がニ・三軒焼失した。四日にも二階堂行盛・盛家らの家が火災により被災し、去年・今年と鎌倉中に火事が絶えない。時期の違いはあるものの、とうとう被災を免れた場所は無くなった。ただ事ではない。」と、『吾妻鏡』で記されている。また、「このニ三ヶ月、地を潤す雨が少なく」と、異常乾燥が続いていたとも記されている。同月二十日、「大内惟信の使者が鎌倉に到着し、去る八日に内裏の殿謝を建造し(上棟がおこなわれ)た。…これは源頼餅朝臣を追討した時に焼失したので、新造されたという」。
承久三年(1221)正月二十五日も鎌倉の町大路の東の火災があり、三善康信宅が被災し、重書門柱器などが焼失している。同月二十七日に、は二品(北条政子)の沙汰で、法華堂で故右大臣源実朝の三回忌の追善が安達景盛入道、二階堂行村入道の奉行で行われている。
『吾妻鏡』承久三年三月二十二日条、「波多野朝定が二品(政子)の使者として伊勢代神宮に出発した。これは今朝、政子に(神仏の教えを受ける)夢想があり、表面が二丈ばかりの鏡が由比浦の波間に浮かび、その中で声がした。「我は(伊勢)第神宮である。世の中を見ると世は大いに乱れて兵を集める事態となる。(北条)泰時が私を瑩(かがや)かせば太平を得るであろう」。そこで(政子は)特に信心を厚くした。朝定は祠官(母が下宮の神官荒木田盛長の娘)の外孫であり、特に使節(の命)に応じたという」。
同年四月二十九日条、「京の使者が大官令(覚阿、大江広元)も基に到着した。去る二十日、急に(順徳天皇の第四皇子・仲恭天皇への)御譲位があった(年は四歳)という」。
承久三年(1221)五月十四日、武勇に優れた後鳥羽院は、幕府の体制が弱くなったと判断し、「流鏑馬ぞろい」と称し千七百騎ほどの兵を集め京都守護職の伊賀光季を攻め、光季は、わずかの手勢で応戦した。光季はここで討ち死にするが、下人を鎌倉に事の次第を伝えさせ、わずか五日で鎌倉は事態を知ることになる。
『吾妻鏡』承久三年(1221)五月十八日条には、「寅の刻(午前四時頃)に太白星(金星)が螢惑星(火星)に接近した(二尺の所という)。」と記載され、いよいよ鎌倉に暗雲が覆い始めた。翌五月十九日条、「午の刻に大夫尉伊賀光季の去る十五日の飛脚が関東(鎌倉)に到着して申した。「このところ院(後鳥羽院御所)の内に官軍が召し集められています。そこで民部少輔大江親広入道が昨日(後鳥羽の)召喚に応じました。光季は右幕下(藤原公経)の知らせを聞いていたため、支障があると申したので勅勘を受けそうな情勢です」。未の刻に右大将(公経)の家司である主税頭三善長衡が去る十五日に遣わした京都の飛脚が(鎌倉に)到着して申した。「昨日(十四日)、幕下(公経)と黄門(藤原)実氏は、(後鳥羽が)二位法印尊重に命じて、弓馬殿に召し籠められました。十五日の午の刻に官軍を派遣して伊賀廷尉光季を誅殺され、按察使(藤原)光親卿に勅して右京兆(北条義時)追討の宣旨が五畿七道に下されました」。関東分の宣旨の御使者も今日、同様に(鎌倉に)到着したという。そこで捜索したところ、葛西八ノ山里の辺りから召し出された。押松丸(藤原秀康の所従)と称し、所持していた宣旨と大監物源光行の副状、同じく東国武士の功名を進駐した文書などを取り上げ、二品(政子)の邸宅(御堂御所)で開いて見た。また同じ時に廷尉三浦胤義(義村の弟)の私的な書状が駿河前司義村の下に到着した。これには「『勅命に応じて右京兆(義時)を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請通りにする』と命じられました。」と記されていた。義村は返事をせずにその勅使を追い返すと、その書状を持って義時の下に赴いていった。「義村は弟の謀叛には同心せず、(義時の)味方として並びない忠誠をつくします」。その後陰陽師(安倍)泰貞・宣賢・晴吉らを招き、午の刻(最初の飛脚が到着した時刻である)と定めて卜筮(ぼくぜい)を行った。関東は太平であると一同が占った」。
後鳥羽院は、幕府討幕ではなく、北条義時追討の宣旨が出した。後鳥羽上皇は三浦義村の弟胤義(三浦義村を日本国惣追捕使(にほんそうついほし)に胤義に約束)や、大江広元の子の大江親広、有力御家人の小野盛綱、佐々木広剛を味方に付けた為、官宣旨を出すことにより兵力が増強できると楽観的なものだった。伊賀光季の早急な知らせで事態を知った幕府と御家人等は官宣旨が出され、大いに動揺することになる。 ―続く