和田義直は、遁世し京都に向かった朝盛を連れて戻り、和田義盛は自身と一族の堅持を抑えがたく、決起する。
健暦三年(1213)五月二日、三浦義村は同族で伯父である和田義盛に合戦の同意をし、義盛邸は鶴岡八幡宮に隣接し、御所の北西に位置していた。御所への襲撃の際は、北門の警護を任され、起請文を記していた。しかし決起のこの日、「先祖の三浦平太為継が八幡殿(源義家)に仕え申し、奥州の清原武衛・清平家平を討った後、あくまでもその恩録を受けてきた。今肉親の勧めに従って、直ちに累代の主君を射るならば、きっと天罰は免れないだろう。速やかに先非を悔い改めて、その内内の相談の趣旨を告げ申すべきである。」と義時邸に参上し、義盛の挙兵を知らせ、義盛を裏切った。この義村の裏切りに対し多くの説が上げられ、『明月記』においては義盛と義村は合戦以前に既に対立関係であったとする。また、山本みなみ氏は『史伝北条義時』に於いて義村が当初から北条氏に内通していた可能性が高いとしている。私見であるが、この裏切りは本家である三浦が傍流である和田の謀叛に加担しても、和田の名誉と地位が上がるだけで、三浦にとって、主流が和田に移る可能性があった。また、義時の与する軍勢も多くなることを見切ったとも考えられる。そして和田が滅べば、鎌倉での三浦の御家人の地位はより強固になる。義村の思考には、北条の下で地位の向上を考えたのであろう。起請文の記述を破る事は、当時としては神仏への誓を保護することになる。また、橘成季が編纂した『古今著文集に丰年正月、将軍御所の上座をしめていた義村のさらに上座に若い千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総の犬は、臥所を知らぬぞよ」とつぶやくと胤綱はいささかも表情を変えず「三浦の犬は友をも食らうなり」と切り返した。和田合戦の義村の裏切りを当て擦ったものとされている。そして、後に三浦を継ぐ嫡子・泰村は五代執権・北条時頼と安達景盛により宝治合戦で討たれ凋落することになった。
三浦義村が義時邸に参上した際、義時は、碁会を行っていたとされ、和田義盛と横山時兼との謀叛の疑いがあったが、義時は、今日起こるとは思わず御所での警備の備えをしていなかったという。和田勢が、この日に急襲に出るとは思いもしなかった事が窺われる。また、合戦の起こった日時が五月二日であるが、時間が「申(さる)の刻(夕方四時)」もしくは、五月二日暁寅の刻(午前四時)の記載があり、『吾妻鏡』五月二日条では「申(さる)の刻(夕方四時)に和田義盛が一味を率い、御所を急襲した」と記載されている。また。『吾妻鏡』五月三日条では北条泰時が「去る一日の夜、酒宴があり翌二日の暁天(明け方)に義盛が襲ってきたとき…」とあるり、日時的な整合性が合わず、複数の資料を用い編纂された事が窺い取れる。しかし、和田義盛の子息・朝比奈義秀の猛威を振った激戦の内容において「天地を震わせるほどに戦った。その日は暮れて夜になり、星が出たものの、(戦いは)まだ止まらなかった。」と有り、これらの記載から「申の刻(夕方四時)」が通説となっている。
申(さる)の刻(夕方四時)に義盛は御所を百五十の手勢を三手に分けて御所を急襲した。中原広元と北条義時の知らせにより御所に至尼御台所(政子)と御台所(実朝室)は北門から御所を離れ鶴岡別当(定暁)の房に移った。この合戦の勝敗は、将軍実朝を和田義盛か北条義時の両人どちらかが擁するかにかかっていた。
御所内では北条泰時、朝時、足利義氏らが防戦して軍略を尽くす。和田俊衛の嫡男・常盛の弟・朝夷名義秀は、御所の総門を破り南廷で立てこもる御家人らを攻め立て、御所に火を放った。将軍実朝は義時と広元に御供され頼朝の法華堂に避難する。おそらく北門もしくは東門から出たと思われ、三浦義村の裏切りがなければ北門からの脱出は不可能で、また東門の和田胤長邸が、和田が拝領していれば、和田が将軍実朝を擁していた。この間、御所内の燃え上がる炎の中で激烈な戦闘が続く。義秀は特に猛威を振るい、力を示すことは、まるで神のようであったという。五十嵐小豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗以下数名が討ち取られた。高井重茂(和田義茂の子で義盛の甥)が義秀と戦い、たがいに弓を捨て、馬首を並べ雌雄を決した。両者が馬から落ち、組合、ついに重茂は討たれたが、義秀を馬から取り落したのは重茂だけであり、一族の謀叛に従わず忠臣を示し、命を落としたことに誰もが感嘆した。北条朝時も太刀を取り義秀と戦ったが、傷を負う。また、足利義氏と出会った義秀は鎧の袖口をつかみ、双方馬を走らせ、袖が切れてしまうほどの力であった。しかし、合戦が長引くと馬の疲弊も極地に達し、鷹司冠者(藤原朝季)が割って入ったため義氏は走り逃れた。しかし、朝季はその場で討たれている。
日が暮れても戦は続くが、義盛はようやく兵が力尽き矢もなくなり前浜(由比ヶ浜)に退却した。泰時は旗を揚げ、軍勢を率い中の下馬橋(現、若宮大路JR高架橋当たり)で陣を固めたて、足利義氏、八田知尚、波多野経朝、潮田実季は勝に乗じて和田勢を攻め立てた。翌三日、寅の刻(午前四時頃)小雨が降り、和田勢は、兵馬とも疲弊し兵糧も立たれ腰越に向かう。そこに武蔵七党の一つ横山時兼と出会い義盛の陣に加わった。新たに軍兵三千騎が加わり勢いを盛り返し新手に立ち向かった。時兼の叔母は和田義盛の妻であり、義盛の嫡子・常盛が解きかねの妹という縁戚縁者であったため、和田川に加担した。横山党の三日の到着は、本来御所襲撃がこの日であったことを窺わせるが、義盛は襲撃が発覚する事を恐れて一日早めたと考える。
辰の刻(午前八時頃)、武蔵大路および稲村ケ崎に曽我・中村・二宮・河村等の西相模・伊豆の御家人達の軍勢が集まり陣取る。戦う軍勢はどちらが幕府軍か分からず、将軍実朝の御教書を求めたため北条義時と中原(大江)広元が連署し、将軍実朝の花押が記された御教書を作成させ、使者を送り浜辺の軍勢に示させた。御家人達に帰趨を明らかにさせ、一斉に幕府に付かせ、千葉成胤も一族を引き連れ幕府方に馳せ参じている。―続く