文治元年(1185)二月十六日、義経が、平家追討の船出の前日、後白河法皇の側近である大蔵卿高階泰経が、義経の出で立を見たいと摂津の渡辺津に来ていた。その夜、泰経が義経に諫めて言った。
「私は兵法を知らないが推量する所では大将軍たる者、必ずしも一番乗りを争うとは限らないのではないか、まず次将を派遣すべきではないか」。
義経がすぐさま答えた。
「特に思うところがあり、先陣を切って命をすてようと思います」と、決意を述べている。
『吾妻鏡』では、泰経が言ったのか、編纂者が追記したのかは不明であるが、「はなはだ優れた武士であると言うべきである」と締めくくっている。泰経にとっては、まだこの頃においては京の治安に義経が必要だった事と、今後の鎌倉への対応を考えれば義経の存在は大きかったと言える。また義経にとっては、平宗盛が陣を構える屋島と知盛が軍営を敷く長門国の彦島と門司関を固めて追討使を待ち構えており、これからの水上戦闘の不安もあったと考える。そして、兄・範頼が山陽道で兵糧と舟の調達に苦慮し、また、東国武士の懐郷の思いもあり、統率が崩壊する恐れもあった。そのため義経のこの戦いに対し一つの決意であったとも考えられる。この苦境に対し鎌倉の頼朝も北条義時、藤原親能、比企朝宗、比企能員らに「平家追討の間は、おのおの心を一つにせよ」と、御書を下した。いかにこの屋島の合戦が、大切なものであるかを頼朝、範頼、義経は考えていたと推測する。
『平家物語』『源平盛衰記』は、同月十五日に節国渡辺と神崎という二所に兵を集めて船に乗り、範頼は長門国に向かい、義経は大物ヶ浜に留まり戦の評議を行った。その評議で、梶原景時は船の頭にも尻にも櫓を付ければ、進にも退くにも都合が良いといったところ義経は言い放った。
「戦の場合退くに都合のいいようなことを考えるのは卑怯である」と激しい議論となる。景時は怒って範頼の方に付いていたとされる。また『平家物語』では義経が、
「そのような櫓を付ければ兵は退きたがり、不利になる」と答えており、
「進むのみを知って、退く事を知らぬのは猪武者である」と景時が言い放つと義経は、
「初めから逃げ支度をして勝てる者か私は猪武者で結構である」と言い返し、その場にいた武士達は、目配せにより味方同士で戦うのではないかと感じたとされる。この逆櫓論争で景時が義経に遺恨を持ち、後の頼朝への讒言により義経の没落に繋がったとされるが、『吾妻鏡』『玉葉』では、範頼は周防国におり、梶原景時は範頼に従っていた。この逆櫓論争は、『吾妻鏡』には記載されておらず、『平家物語』『源平盛衰記』の作者の虚構とされる。
(写真:ウィキペディアより引用 徳島県小松島市旗山の日本最大の騎馬像)
同月十八日、義経は昨日渡辺津から渡海しようとしたが、暴風がにわかに起こり、舟の多くが破損してしまい、兵士の舟は一隻も船出できなかった。この時、山陽道で苦慮する兵站線の確保を最優先する義経は、即時の渡海を行う為に諸士・諸兵に言った。
「朝敵の追討氏が斯波氏の間背も逗留するのは、問題となろう。風波の難を顧みてはならない」。
そこで丑の刻(午前二時前後)に、まず船五艘が出て、卯の刻(午前六時前後)には阿波椿浦(現阿南市椿湾の南)に着いた。常ならば、三日かかるところ(四時間ほどで到着した)である。すぐに百五十余騎を率いて上陸すると、当国の住人近藤七親家を召して案内させ、屋島に向けて出陣した。途中の桂浦において散位栗田(田口)成良の弟の桜庭介良遠を攻め、良遠は城を捨てて逃げたという。『平家物語』『源平盛衰記』では上陸地を安房勝浦(現小松島市)に到着し、舟の小さいうえに馬・兵糧を積み、五十余騎と記載されている。
(写真:ウィキペディアより引用 屋島)
『源平盛衰記』に、翌十九日、「義経は昨日夜通し掛かって、安房国と讃岐国との国境の中山を超えて、今日辰の刻(午前八時前後)には、屋島の裏側の向かいの裏に到着した牟礼と高松の民家を焼き払った。これより先帝(安徳帝)は屋島の内裏を出られ、前内府・平宗盛もまた一族を率いて会場に逃れる。義経は紅の下濃の鎧を着て黒馬に乗り、田代冠者信綱と金子家忠、同余一近則、伊勢能盛等を伴い海岸の水際に馳せ向かう一方、平家もまた船を出して、互いに矢を打ち合った。この間に佐藤継信と同忠信、後藤実基。同養子基清らが内裏や宗盛の宿所をはじめとする舎屋を焼き払った。黒煙は天にそびえ白日の光を覆った」とある。義経は、土地の武士を味方に付け三百騎ほどで奇襲を始めた。また、干潮時には屋島へは馬で渡れることを知って急襲を行う。寡兵(少ない兵)と分からないよう民家に火をつけ大軍と思わせ一気に攻め込み平氏軍を撹乱させた。瀬戸内側からの攻撃に対し構えていた平家は一ノ谷と同様、予想外で海上へと逃げて行く。この時、追討しようとする源氏に扇を持つ女の船が現れ、弓の名手の那須与一がその扇を射止めたと言う「扇の的」の逸話が残されている。
屋島と関門海峡を封鎖されると補給路が絶たれていた現状を、義経が屋島を落とすことにより、長門国まで伸びた兵站線が確保され、範頼の本体である東国・坂東の武士にとっての生命線の確保であった。戦術家としての義経の才能に驚愕する。
源範頼が鎮西に渡り諸士を制圧、また懐柔させ平家の逃げ場をなくし、義経の屋島を陥落させれば、平家はこの状態で詰みである。与する諸氏もおらず、兵站の確保も出来なく瀬戸内を漂うしか無かったのである。京と鎮西の中間に位置する周防国に軍奉行として三浦義澄を残して義経に水軍を任せたと考える。義経は屋島を攻めた後、別動隊として四国に布陣し、熊野・伊予水軍を味方につけていた。周防国の船奉行の五郎正利が献じた十艇ほどの船に乗り、壇ノ浦を目指した。周防に待機していた三浦義澄は、そのことを聞きつけ周防国大島で合流し、
(写真:ウィキペディアより引用 『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵 下関市前田町の「平家の一杯水」)
『吾妻鏡』文治元年三月二十二日条、義経は「汝は既に門司の関を見知る者なり。なれば今は案内じゃと云う可し。されば来る壇ノ浦の海戦においてわが軍の先陣を勤む可し」義澄は、その水軍の先陣を任され、壇ノ浦東方の興津(下関市満珠島)の海上に布陣した。『平家物語』では、船の大小は別とし、平氏一千の舟を集め、源氏三千の舟を集めたと言う。文治元年三月二十四日、正午近くに壇ノ浦の戦いが始まった。初戦、平家が優勢であった。潮の流れが西の平家側から東の源氏側に流れ、平家方は自由に操船できた。源氏方は潮に戻され上手く操船できず、干珠満珠(せんじゅまんじゅ)と言われる岩礁近くまで追い詰められたが、義経は水軍の禁じ手であった漕ぎ手や舵取りを射る事で船の運動性能をなくして平家の舟は漂い始めた。やがて午後三時ごろになると潮流が変わり、逆に東から西干へと流れた。源氏の舟は勢いを取り戻し平家の舟は逆に攻め立てられた。平家は最後を悟り、海に身を投げ自害するものが続いた。最後には、清盛の妻の二位の尼が安徳天皇とともに入水し、三種の神器である剣璽は戻ることが無かった。申の刻(十六時前後)、海の中には平家の赤旗や赤符が、秋の紅葉のように浮き流れ、主人の無い船なども幾艘となく波間波間にゆられて、風や潮の流れに漂う。栄えた平家一門は西海の波に沈み滅んだ。そして源平合戦の終わりを告げた。
(写真:ウィキペディアより引用 みもすそ川公園の八艘飛び源義経像と対をなす平知盛像)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もついに滅びぬ、偏に風の前の塵におなじ。」 ―続く