坂東武士と鎌倉幕府 五十七、平家追討 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 元暦元年(1184)正月二十日、木曽義仲が討ち取られ、後白河院は解放された。院は即時に摂政・松殿師家を解任し、翌二十一日、源九朗義経は義仲の首を討ち取った事を奏聞しする。寿永二年(1183)七月以来、三種の神器と安徳天皇は平家の下にあり、三種の神器を後鳥羽天皇側に迎え入れる為に、この日、公卿議定を開く。義仲追討の間、平家は西海・山陰両道で軍士数万騎の勢力を固める事が出来た。最大の議題は、勢力を盛り返し福原まで進出していた平家への対応だった。一ノ谷に城郭を作り対抗の意を見せている事から、平家と和平するか、交戦して実力で奪取するか朝廷内での意見は割れる。

 

 『玉葉』正月二十二日条から二月二十三日条までの記載によると、この席上で大炊御門経宗と徳大寺実定は、後白河院の叡慮により追討を主張する。出席者の多くは神鏡剣璽の安全のため使者を派遣すべきという意見だったが、院近臣の藤原朝方・水無瀬親信・平親宗も「偏に征伐せらるべし」と主張した。それは「法皇の御素懐」であったといわれ、同月二十六日に平宗盛追討の宣旨、同月二十九日に義仲残党追捕の宣旨が下されることになる。『玉葉』二月二十三日条によると、後白河院にすれば、平氏が政権に復帰すると再び院政停止・幽閉される恐れがあり、和平はありえなかった。後白河院と朝廷は、頼朝の東国・坂東の武士に依る平氏の復権を阻止する為に頼朝に平家追討の宣旨を下し、平家に持ち去られた三種の神器の奮還も命じた。

 

 去る正月二十六日の朝に検非違使が七条河原において、伊予守義仲及び高階忠直・今井兼平・根井行親らの首を受け取り、獄門の前の樹に懸けた。翌二十七日には、鎌倉に到着した遠江守安田義定・蒲冠者源範頼・源九朗義経・一条次郎忠頼等の飛脚により、去る二十日の合戦を遂げた結果、義仲とその党類を誅したということを報告している。頼朝が詳細を聞いているところ梶原景時の飛脚も到着し、景時の飛脚は討ち取った人々や因人等の名簿を持参していた。諸方からの使者は、参上したけれど記録は持参していなかった。この景時の配慮に頼朝は感心したという。去る『吾妻鏡』治承五年正月十五日の頼朝との初見で、「頼朝は、景時は文筆に携わる者では無かったが、弁舌に巧みであり、非常に気に召されたとされる」とあり、御家人に加えられた。公文書の作成等は、坂東武士にとって不慣れな面もあるが、事務能力には長じている事が窺われ、後に和田義盛から景時に侍所別当が移されるのも頼朝と景時の信頼関係が構築していったことからと考えられる。また翌日の二十八日には、小山朝政・土肥実平・渋谷重国を始め主だった御家人達の使者が鎌倉に参上し、義仲との合戦が無事を得たことを祝い申した。翌日には京において、範頼・義経の両将が平氏を討伐するため、全軍兵を率い西国に向けて出発させる。

 

同年二月五日、源氏の範頼・義経の両将が摂津国に到着した。前日の四日、平家では、相国禅門(平清盛)の三回忌を迎え仏事を行っていたという。そして評議の結果、七日卯の刻をもって矢合わせの時とし、一の谷本陣の大手を範頼が大将として、従う者。小山朝政、武田有義、板垣兼信、下河辺行平、長沼宗政、千葉常胤、佐貫広綱、畠山重忠、稲毛重成。同重朝、同行重、梶原景時、同景季、同景高、相馬師常、国分胤道、東胤頼、中条家長、海老名季久、小野寺通綱、曽我祐信、庄忠家、同広方、塩谷惟広、庄家長、秩父行綱、安保実光、中村時経、河原高直、同忠家、小代行平、久下重光等、五万六千騎。

 三草山の西に陣を張る搦手に、義経が大将として、従う者。遠見定家、大内惟義、山名義範、斎院次官親能、田代冠者信綱、大河戸広行、土肥実平、三浦義連、糟屋有季、平山季重、平佐古為重、熊谷直実、同直家、小河祐義、山田重澄、原清益、猪俣則綱等、二万余騎に別れ布陣した。『吾妻鏡』二月五日条であるが、畠山重忠の記載は後の『平家物語』一の谷の勲功と違いがあり、記述が違っている。

 

 『吾妻鏡』『平家物語』では源氏の兵力は、範頼勢五万六千騎、義経勢二万余騎手で、一の谷の平氏前衛を範頼勢。搦手の義経勢は、一の谷後陣を叩く手はずとなった。平家方も義経は三草山東に陣取る平資盛、有盛の軍に夜襲をかけ、四散させ、軍の半分を土井実平に、また半分を安田貞行・忠行面に預け義経率いる七十騎が一ノ谷の裏にある鵯超に到着した。範頼軍は平氏の前衛と激しい攻防を始めていた。城郭は高く、頑強で容易く破れない陣形であり、義経はその崖を一気に下る。驚いた平氏軍は混乱し、慌てて舟を出し海上に逃げ源氏の大勝利に終わった。後に言われる、鵯越(ひよどりごえ)の逆さ落しである。この七十名には三浦義連がおり、三浦の武士は半島の崖を駆け回り、馬場のごとく地であると言い放ち、先立って駆け下った為に、他の武士も追従したと言われる。また武士の誉れと言われる怪力の畠山重忠は馬が可哀そうと、その馬を抱えて降りたとも伝えられている。一の谷の戦いは、平忠度・清房・清貞・知章・通盛・業盛・経正・経俊・敦盛・師盛が討ち取られ、重衡が生け捕られるという平氏軍の一方的敗戦に終わり、宗盛らは命からがら屋島に落ち延びた。この一の谷の戦いについて、『平家物語』『吾妻鏡』『玉葉』の記述で、両方の勢力数及び、鵯越等の合戦場所や、時間的経過について、不明な相違が多く存在し、諸説が挙げられている。

  

 しかし、『玉葉』において、二月十日に後白河院が帝の三種の神器の返還を平宗盛に促した平宗盛の返書が届く。『吾妻鏡』元暦元年月二十日条の記述に敗北の要因としての内容が残されている。「六日に修理権大夫(水無瀬親信)から和平交渉を行うという書状が届いた。合戦してはならないという院宣を守り使者の下向を待っていたが、七日に源氏の不意打ちがあった」という内容が記されている。また、「安徳天皇が還御する際、毎回、武士が派遣され、妨げられており、進むことがおできにならない。既に二年に及んでいます。合戦を停止され、災いを除くという真実の心をお守り頂きたいと思います。和平も還御両方ともに内容の明確な院宣を頂ければ承知いたします。」との内容であった。後白河院及び朝廷の卑屈な画策が窺われ、一の谷の戦後、再び後白河法皇は、いけ捕られた平重衡を介して宗盛に神器の返還を求めている。

 

 一の谷の合戦の勝利の詳細を知った頼朝は、同二十五日、高階泰経を通し朝務四ヶ条を言上した。

一、朝廷政務等の事、恩徳のある政治を行い。諸国に実権を持つ地行国司を決めるよう、東国、北国両道の国々は来秋までに国司を任命すべき。

一、平家追討畿内の源氏平氏と称するものは義経の軍勢に加わり、勲功の賞は後に私から計らう。

一、諸社の事、我が朝は深刻で、昔からの神領の安堵と新たな社領を加えるべきである。破損、衰退していた諸社は修復の為に社領を増やしてきたが、朝廷の裁許でおこない、式目を守り神事を行う事を朝廷から命ずる。

一、仏事の事、諸寺諸山の御領は維持し、慣例の仏事を絶やさないことと仏法を忘れた僧兵への対処と法に伴う武具の取り上げを行う。

との内容であった。頼朝は武士の棟梁でありながら、その軍事力を背景に平家追討後の自身が考える朝務を朝廷に具申できる立場を得たことになり、また頼朝は現実主義者ではあった。 ―続く