坂東武士と鎌倉幕府 三十二、伊豆での頼朝 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 永暦元年三月(1160)二十日、頼朝は京を出て、流罪地である東国の伊豆の地に着いた。頼朝の伊豆での流人生活についての資料はほとんど残されておらず、配流地が伊豆であると言う事だけで歴史的資料には残されていない。北条氏の支配地であった蛭ヶ島で過ごしたという記述は、後世の物で真偽は定かではない。流罪当初、伊豆国の東である久須美荘(葛見荘とも呼ばれ、伊藤荘、宇佐美荘、大見荘、河津荘から成る)の開発領主であった工藤氏六代目の工藤祐隆の養子・祐継の監視下に置かれたと考えられる。平安時代末期から藤原南家・藤原為憲の流れを汲む。工藤氏の一族で通字は「祐」である。  

 

 工藤祐隆は後妻の娘との間に生まれた工藤祐継に家督と伊藤荘、宇佐美荘を、早世した嫡子・祐家の子・祐親に河津荘を分与した。家督を継いだ工藤祐継もまた早世したため、遺領が祐親により押領され、伊藤祐親が伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本領とし祐親が頼朝の監視役を継承した。当時の頼朝の伊豆での暮らしに大きな制約は無かったと考えられ、武芸の一環である巻狩りにも度々参加したと事が知られ、安元二年(1176)十月の伊豆奥野の巻狩りにも参加したことが『曽我物語』に描かれている。頼朝の立場は流人であったとは言え、伊豆国及びその周辺では「名士」「貴種」として扱われていたと考えられる。

 

(写真:ウィキペディアより引用 静岡県伊東市大原物見塚公園伊藤祐親像、

 頼朝は、この流罪地の伊豆国で霊山箱根権現、走湯権現に深く帰依し、また、その地での生活は、阿弥陀仏への読経を怠らず、亡き父義朝と源氏一門を弔いながら過ごす。頼朝の流刑で都から従う者はおらず、流罪後、頼朝の乳母であった比企尼の娘・丹後内侍を妻とした安達盛長、次女・河越尼を妻とした河越重頼、三女は実名・通称とも不明であるが妻とした伊東祐親の次男・祐清が側近として仕えたとされる。また保元の乱で源義朝に従い、近江国の所領佐々木荘を失い放浪していた宇多源氏の佐々木秀義の子が佐々木貞綱等の四兄弟が従者として奉仕した。

『吾妻鏡』において、比企尼の甥である三善康信から定期的に都の情報が送られている。この流罪において乳母であった比企尼の存在は大きく、頼朝の流罪での生活の糧を一人で支えた。

 
  監視役であった伊東祐親が京に大判役・謹仕に赴いている際、三女の八重娘が頼朝の子・千鶴丸を産んだ。京から戻った祐親は激怒して、平家の咎を受ける前に三歳になった千鶴丸を松川の轟ヶ淵に沈め殺害し、頼朝自身の殺害も企てた。祐親の次男・祐清が、頼朝の身の危険を知らせる。その後、祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れた。八重姫のその後については入水自殺したとも、江間小四郎(北条義時とは別人)もしくは、千葉氏と縁を結んだとされ、この間に祐親は出家したと言われている。この八重姫に対する記述は、鎌倉幕府により編纂された史書『吾妻鏡』には残されていない。また、その後の史書についても記載はない。同時期に編纂されたと考えられる『延慶本平家物語』や『曽我物語』に残されており、その後に編纂された『源平汪盛衰記』『源平闘諍録』等の物語類に登場する。私見であるが、『延慶本平家物語』や『曽我物語』は口承伝承による話を、編纂されているため、荒唐無稽な記述もあるが、真実を語っている側面も多く持つ。『吾妻鏡』のような鎌倉幕府編纂の史書において書き留めることは、許されずはずはない。またその後の室町幕府や江戸幕府において源頼朝は、武士の象徴のように神格化されてきたため、不都合な記載を残すことが出来なかったと考える。この伊東祐親は、伊豆において大きな力を持つ豪族で、坂東において婚姻関係で多くの氏族と縁戚関係を持ち、相模の三浦義澄の舅であり、北条時政の舅でもあり、『曽我物語』では、北条政子・義時・阿波局が同母とされる。

 

 北条時政の邸に逃れた頼朝は三十歳になっていた。後に北条時政の後妻になる牧の方は、牧宗親(大岡時親)の妹、あるいは娘とされ、宗親は平治の乱後に頼朝の助命に尽くしたとされる池禅尼の甥・藤原宗近と同一人物とする説があり、それに従うと牧の方は池禅尼の従妹、あるいは姪に当たる。時政との結婚時には、池禅尼は既に亡くなっているが、池禅尼子の頼盛が関与していたかは定かではないが、その結びつきと関係に驚くばかりである。 ―続く