鎌倉散策 平重衡 二十三、維盛の最期「横笛」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『平家物語』で平重衡と対象比較的に描かれている平維盛は、重衡が捕らわれ鎌倉に下向した時には八島にいたとされる。富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いで敗れ、七万もの平家の武士の大半を失ったという。防戦のしようがなくなった平家一門は寿永二年(1183)七月二十五日に都落ちした。平維盛は、その責任を痛感したと考える。また、西国に落ちる平家の苦難を予測していたと思われ、妻の建春門院新大納言局、子の六代と女子を京に残し都落ちした。維盛は、新中納言局に自身が死んだときには、出家などをせず、どんな人とでも再婚して子供たちを無事育てるよう語っている。

 寿永三年二月七日の一ノ谷合戦の前後、維盛は密かに陣中から逃亡しており、九条兼実の『玉葉』二月十九日条には、「伝聞、平氏帰住讃岐八島(中略)また維盛興三十艘許相卒指南海去了云々」と記され、三十艘ほどの舟を率い南海に向かった。しかし、その原因と期日については諸説あり、定かではない。『平家物語』では、「横笛」「高野巻」「維盛出家」「熊野参詣」「維盛入水」で維盛のその間と最期の記述が語られている。

 

(写真:ウィキペディアより引用 屋島)

 「横笛」において、「小松三位中将維盛卿は、身体は八島にありながら、心は妻子のいる都との間を行きつ戻りつしていた。故郷に残しておかれた北の方や幼い子等の面影だけが維盛の身から離れず、忘れる事ができなかったので、「生きていても仕方のない我身であることよ」といって、元暦元年三月十五日の明け方、秘かに八島の館を抜け出して、与三兵衛重景(よさのひょうえしげかげ)、石童丸という少年と舟を漕ぐ心得のある武里(たけさと)と申す舎人(とねり)の三人を連れて、阿波国の結城の浦から小舟に乗り、鳴門の浦を通り、紀伊路へ向ったとある。和歌、吹上、玉津島の(明神衣通姫:そとおりひめを祭る)、日前、国県(こくけん)両宮の前を過ぎて紀伊の湊へ着く。「ここから山伝いに都へ上って、恋しい人々にもう一度逢いたいと思うが、本三位中将が生け捕りにされて大路を引き回され、京・鎌倉で恥をさらしたのでさえ悔しいのに、この身までも捕われて死んだ父の名を辱めるのも情けない」といって、何度も何度も都へ行きたいという思いにかられたが、都へ行きたいという気持ちとそれを制する気持ちが争って結局高野のお山へおいでになった。」

 

(写真:ウィキペディアより引用 平維盛像、平重衡像)

 『平家物語』巻第十、「横笛」を現代語訳で記載する。高野山によく知る聖がいた。長年の知人三条の斎藤左衛門大夫以頼(もちより)の子で、聖の斎藤滝口時頼という者である。もとは小松殿(平重盛)の侍である。十三歳で滝口の陣へ参ったが、建礼門院の雑仕に横笛(未詳だが、神崎の遊君、長者の娘との伝がある)という女がいて、滝口は、この女を寵愛した。父・以頼がこの事を伝え聞いて「世にときめく権力者の女婿であれば、後ろ盾を持たせて宮仕も楽にさせようとしたが、身分や地位が低い貧しい者を思っても」と父・以頼は強く諫めた。滝口は、「西王母(中国古代の不老長寿の神仙、仙女)と聞えた人も昔はおられましたが今はおられません。東方朔(前漢に武帝に仕えた諷諫した)といった人も、名前だけは聞きますが目に見た事はございません。老齢者が先に死に幼少の者が後に残るとは限らない人の世の中では、人の命は、火打石が放つ一瞬の光と違いは無く短いものです。たとえ、人は長生きだといっても、七十、八十を過ぎる事はありません。その中で身体が健康でいられるのは、纔かに二十余年ほどです。夢幻の世の中に、気に染まない醜い女を片時でも妻としても何になりましょう。気に入った女性と連れ添う事は、父の命に背くことになります。これこそ仏道に入るよい機会です。辛い浮世を嫌い、真の仏道に入るにこしたことはございません」といって、十九の年に髻(もとどり)を切って出家し、嵯峨の往生院で仏道修行に励まれていた。

 

 横笛はこれを伝え聞いて、「自分を見捨てるのはともかくとして、姿までも変えたという事がほんとに恨めしい。例え、世の中に背いたとしても、どうしてこの事を知らせてくれないのだろう。あの人が、どんなに薄情であったとしても尋ねて行って恨みを言おう」と思いながら、ある日の夕暮れに都を出て、嵯峨の方へふらふらとさまよい出て行った。季節は、二月十日過ぎの事なので、梅津の里の春風にどこからともなく匂ってくる梅の花の匂いに心がひかれ、大井川(桂川、大堰川)に映る月影も霞に籠って朧(おぼろ)であった。格段の思慕の情けも、誰のためにするのかと思った事だろう。往生院とは聞いていたが、どこの坊とも知らず、此処に立ち寄り、あそこに佇み、尋ねあぐんでいる様子は痛ましい事であった。

 

 そうするうちに、ある古くなった僧坊に、念仏を唱える声がした。滝口入道の声と聞き、「私がここまで尋ねて参りました。出家姿でおられるのを、もう一度拝見したいのです」と、連れて来た女を通して言わせたので、滝口入道は胸が高鳴って、障子の隙間から覗いて見ると、ほんとに尋ねて来た様子がいたわしく思えて、どんなに仏道修行に堅固な者でも心が折れそうであった。やがて人を出して、「全くここにそんな人はおりません。お門違いでございましょう」と言って、ついに会わずに帰してしまった。横笛は情けなく恨めしく思ったが、力なく涙を抑えて帰って行った。滝口入道が同宿の僧に会って申したことは、「ここは、まったく静かで念仏を唱えるに障害はありませんが、不本意ながら別れさせられた女にこの住いを見られましたので、たとえ一度は気丈に振舞ったとしても、再度慕って来る事があれば、気持ちも動くことになりましょう。別れを申す」と言って、嵯峨を出て高野山へ上り、清浄心院(しょうじょうしんいん)に身を置いたのだった。横笛も出家したという噂を聞き、滝口入道は一首の歌を送った。

「そるまではうらみしかどもあづさ弓まことの道にいるぞうれしき」
(髪を剃り出家するまでは私をお恨みされたと思いますが、貴方も仏道に入ったと聞いて嬉しい)

横笛の返事には、「そるとてもなにかうらみむあづさ弓ひきとどむべきこころならねば」
(髪を剃って貴方が出家された事を恨みましょうか。とても引き留めることのできるような貴方の決心ではないのですから。それゆえ私もあなたに倣って出家しました)

 

(写真:ウィキペディアより引用 高野山 根本大塔と御廟ノ橋)

 横笛はその思いが積もったせいであろうか、奈良の法花寺(ほっけじ)にいたが、間もなく亡くなってしまった。滝口入道はこの話しを人伝に聞いて、ますます深く仏道修行に励んでいたので、父も不孝を許した。親しい物共も皆滝口入道を信頼して、高野の聖と申した。

 三位中将が滝口入道に会って御覧になると、都にいた時は布衣姿に立烏帽子を被り、襟元を整え、鬢を撫でつけ、優美な男であった。出家後は、今日初めて御覧になり、まだ三十にもならない男が、老僧姿に痩せ衰え、濃い墨染に同じ袈裟を着て、深く仏道修行に徹する求道者になっており、羨ましく思われたことであろう。普(しん)の七賢、漢の四晧(しこう)が住んだという商山(しょうざん)や竹林の有様も、これ以上では無いと思われた。 ―続く