五月五日の木曜日は晴れた良い天気で日中の気温は二十六度まで上がった。十三時から鎌倉宮(大塔宮)で草鹿神事が行われる。令和二年からコロナウィルス感染症の拡大により中止されていたが今年再開されることになった。源頼朝が富士の巻狩(まきがり)を催した際に藁を束ねて鹿の形を作り、稽古したのが起源でとされる。草鹿神事は、「くさじししんじ」と読む。烏帽子、直垂姿の射手が候言葉を交わしながら、古式にのっとり、鹿の形をした的に向かって矢を放つ。流鏑馬と違い、馬には乗らず立ち位置で的を射る。装束を纏い、浅沓(あさくつ)を履き、不安定であるため通常の弓道の練習とは違い的に当てることが難しいと言われる。この神事には、吉凶の占い的な要素も持ち合わせているようだ。
草鹿神事は、毎年五月五日に鎌倉宮で行われる神事である。この起源は源頼朝が、建久四年(1193)五月八日に鎌倉を発ち、大規模な軍事訓練でもある富士の巻狩りを富士裾野(富士宮市)で行った。本来、狩猟により各武者の連携を確認する軍事演習的要素が強いが、この富士の巻狩りは、奥州征伐において奥州藤原氏を倒し、後鳥羽上皇が崩御して一周忌が明け、頼朝が前年の建久三年に征夷大将軍に任ぜられ最も権勢が強化された時期であった。頼朝にとっては、自身の権勢の誇示と嫡男・頼家の将軍後継者としての披露も兼ねていたとされる。五月十六日頼家が弓の名手である愛甲季隆の指示により初めて鹿を射止めた。また同二十八日に曽我兄弟の仇討が起こっている。
少し脱線するが、頼朝挙兵時に敵対勢力であった伊東祐親の孫である曽我十郎祐成と五郎時致(ときむね)兄弟が、富士裾野に立ち並んだ宿所で父・河津祐通(祐泰)の仇・工藤祐経を殺害した。曽我兄弟の仇討である。この日兄弟は十人の武士を殺害したが、兄祐親は仁田忠常に討たれ、時致は頼朝の宿舎まで駆け参るが剛腕の小姓・五郎丸に取り押さえられた。翌日頼朝の前に引き出された時致は、「工藤祐経を討つ事は、父の死骸の恥を雪(すす)ぐためであり、ついに私の鬱憤の志を披露できました。…次に御前に参りましたことについては、祐経が忠(頼朝の)寵愛を受けていたというだけではなく、祖父祐親が(頼朝の)御勘気を受けておりました。あれこれと恨みがありましたので、(頼朝に)拝謁を遂げた上で自殺するためでした」。(その場で)聞いた者は感嘆を表した。『吾妻鏡』建久四年(1193)五月二十八日条に記されている。その後、直ちに巻狩りは中止になり、頼朝の粛清が広がった。時致の頼朝の宿舎に駆け参った事は、頼朝をも討つ事だったのか、真相は定かではない。『曽我物語』はこの仇討を瞽女(ごぜ)いう女性の「語り」により伝えられ、伊豆山・箱根山などの唱導にかかわる僧侶によりまとめられ、鎌倉時代末に宗教的な人の悲しみを導唱に用いた真名本(漢文体)『曽我物語』が成立し、室町期には、仇討の劇的要素を強めた仮名本『曽我物語』が成立した。
草鹿神事は、この富士の巻狩りが五月に行われたことや、男子の節句に倣い五月五日に行われている。富士の巻狩りで度々鹿を打ち損じる御家人に対し源頼朝が藁の鹿を束ね鹿にもしてそれを射る訓練として行われたとされ、草鹿神事に残されたとされる。しかし、『吾妻鏡』等でその記事を見つける事は出来ない。
草鹿神事は、烏帽子、直垂、水干姿の各四人の二組に分かれ、日本の矢で古式にのっとり鹿を模した的を射る。射手の先鋒から使う弓の格が違い、大将になると重藤(しげとう)の巻が多く入った弓を使う。本来、侍大将しか使えない弓であり、先日の大河ドラマ「鎌倉殿と13人」の壇ノ浦の戦いで平家の胴丸の鎧を着けた武士が重藤の弓を使うなど全く時代考証及び古式に沿っていない点などを知ることが出来る。的との距離は十二間程(約二十二メートル)で、ただ射るだけではなく、二十四の印があり、当たった場所により良い矢、良い矢であらずと、射手と的奉行の間での的を射た場所の問答も候言葉で交える事もこの神事の特徴であるらしい。
的奉行は、神に誓い、縁者、親類に対しの不正を行わないことを誓う。正確ではないがその問答は、射手が矢を討つと的奉行は射手に「射たれし矢は、いかなる矢で候」。射手が「射たれし矢は、良き矢にて候」と射た場所も言う。場所が違えば命中とみなされない。また射手が討ち終わるとすぐに的奉行に「射たる矢は、最良の矢で申し候、御判別のほどお試し頂き申し候」と言う。的奉行が吟味を行うために射手と共に的に近づき、射手の弓を借り矢の落ちた場所をその弓を以って計る。
矢が鏑矢なので、大きな音を発し、的に刺さらず、跳ね返る。矢は正面に近い場合に、まともに当たるため真直ぐに射手の方向に跳ね返り、その落ちた場所が一弓内であるなら、良き矢とされる。的にまともに当たらないと矢は後方や横に流れる。前方に跳ね返っても鹿の的の背部に当たれば高く跳ね返され、見た目では命中したと思われる矢でも跳ね返りの矢が一弓を超えるところに落ち、良き矢でなかったとされ、命中は取り消される。命中すれば、射手の場所の前方にある砂山に命中した本数の櫛が差される。草鹿神事は、流鏑馬にはない、占いの部分もあるようだ。的奉行は、「当たりし矢は、良き矢にて、吉兆に近づき候」等を申し渡される。そして、最期の大将戦は、よき矢を射れば命中の矢一本に付き二本の櫛をさすことが出来、勝敗を決する。勝者の組には。鎌倉宮の菖蒲が贈られる。
草鹿神事は、昭和六年に復興されたと紹介されていたと聞き取り、音声が聞き取り辛かったので、間違いでしたら申し訳ございません。この草鹿神事は、弓馬礼法小笠原流の人たちによる奉納であり、相手の射手が矢を射る間、蹲踞の姿勢で待つ。この姿勢は、不安定で足の筋力も相当使う辛い姿勢であり、それらは日々の鍛錬に基づくものである。