善哉(ぜんざい:後の公暁)は、正治二年(1200)年、二代将軍源頼家と足助重長(加茂重長)の娘辻殿との間に生まれたと考えられている。『吾妻鏡』(引用:現代語訳吾妻鏡、五味文彦・本郷和人編)では、辻殿は、頼朝の「室」と記され、比企の乱で亡くなった比企能員の娘・若狭局は「愛妾」と記され、若狭局との子・一幡は嫡子に等しい扱いを受けている。辻殿の父・足助重長は、官位は無く右兵衛とされるが、尾張源氏の山田氏の一族で三河国加茂郡足助荘の荘官になり、伝承では治承五年(1182)の墨俣川で参戦し平家方により拘束され、後に殺害されている。しかし辻殿は、源為朝の孫娘であり。当時の婚姻は政略的なものが多いため頼朝が婚姻に動いたのではないかと考えるが、その話の成り立ちが不明である。『吾妻鏡』建仁元年(1202)十一月二十一日条で「名前を善哉と言う三歳の将軍家(源頼家)の若君(後の公暁)が、初めて鶴岡で神拝を行った」と有り、本来ならば公方、次子等で呼ばれ嫡子を示す若君は使わないと考えられる。また、建仁二年一月二日条に「将軍(源頼家)の一幡若君が鶴岡八幡宮に奉幣され、新馬二頭を奉納された。」と在る。『吾妻鏡』による。一幡、善哉の記述が善哉の方が早い点に疑問が残るが、源頼朝が、建久十年(1199)一月十三日に亡くなっており、『吾妻鏡』も建久六年(1195)十二月の記載で中断し、正治元年(1199)二月から再び記載されているため、記述が交錯や、不明点が多い。
(写真:ウィキペディアより引用
承元四年(1210)七月条「金吾将軍(源頼朝)の妻室(辻殿と呼ばれ、善哉公の母)が出家された」とある。阿波局の比企家は比企掃部允が頼朝配流と共に武蔵国郡司として下向した。掃部允は律令制において宮内省に属する令下官で七位以上の官位の職である、家格においての位置づけは、当時としては比企家の方が若干高いと考える。『吾妻鏡』が北条氏側の立場から編纂され、比企の乱において比企一族が謀叛人として扱われ、辻殿を妻室として後に改ざんしたとも考えることが出来るが、実質の正室は、定かではない。
元久元年(1204)七月十八日、善哉五歳の時に伊豆に幽閉された父頼家が、北条義時の刺客により暗殺されている。『吾妻鏡』建永五年(1206)六月十六日、七歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母政子・尼御台の邸に渡り着袴(ちやつこ)の儀式を行う。同年十月二十日には善哉を政子の命により実朝の猶子(ゆうし)とし、初めて御所内に入った。健暦元年(1211)九月十五日、善哉は十二歳で鶴岡八幡宮別当定暁の下で出家し公卿の法名を受け、翌日、受戒の為に上洛する。公暁の読み方は公卿とされているが、館博氏の『インド仏教研究』「公暁の法名」では公顕・光胤が鎌倉期の資料で「こうけん」「こういん」と漢音で発音されており、江戸期以前の資料において公暁を「こうきょう」と発音しており「くぎょう」ではな「くこうきょう」と発音されていた可能性が高いと指摘されている。『承久郡物語』では「こうげう」、『承久兵乱起』では「こうきやう」と記されている。公暁は、京都の園城寺の公胤の門弟として貞暁の受法の弟子となり、健保五年(1217)五月十一日に鶴岡八幡宮別当三位僧定業が腫物を患い死去した。そして、尼御台所(政子)の命により欠員となった別当に公暁を補任しし、六月二十日に鎌倉に戻り鶴岡八幡宮別当に就いている。
同年十月十一日、阿闍梨公暁が鶴岡別当に補任されてから、初めて神拝が行われた。また宿願の為に、鶴岡八幡宮寺で千日の参篭を行い、翌建保六年(1218)十二月五日、公卿が鶴岡八幡宮に参籠して全く退出しないまま幾つかの祈祷を行っているが、一向に髪を剃る事もなく、人はこれを不審に思ったと言う。また、伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を遺わされたと将軍御所中で披露されている。
承久元年(1219)は、不吉な事から始まっている。正月七日条、覚阿(広元)の邸宅以下四十余軒焼失。同十五日、北条時房の妻室の宿所以下十軒が焼失した。二十五日、昨夜、右馬権頭頼茂朝臣が鶴岡宮に参籠し、拝殿にて法施を行った時、一瞬眠ってしまい子供が杖で鳩を撃ち殺し、頼重の狩り衣の袖を討った。目を覚まし不思議に思い今朝八幡宮の庭で死んだ鳩が見つかり、また不思議に思い占いを行った結果不吉と出た。二十七日、夜になり雪が降り出し二尺ほど積もる。実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参った。実朝が宮司の楼門に入った時に義時は急に真心が乱れ、実朝の御剣役を仲章朝臣に譲り退出し、小町の自邸に戻った。夜になり神拝の儀式が終わり、実朝が退室したところ鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の脇の大銀杏の陰から近寄り、剣を取りだして実朝を殺害した。数名の奉仕が共なったとも言われ、義時と間違えて御剣役に変わった仲章を討ったとされる。公暁が「上宮の砌(みぎり)で別当の阿闍梨公暁が父の敵を討った」と名乗りを上げた。 『愚管抄』では名乗りはせず、公卿らが逃げてくるまで鳥居の外に控えていた武士たちは気が付かなかったと記載されている。その後、隋兵が馬で宮司に駆けつけたが公暁の姿はなかった。直ちに雪ノ下の公暁の本坊を襲い、その門弟・悪僧が立てこもり合戦になったが、そこにも公暁の姿はなかった。
(写真:鎌倉 寿福寺)
公暁は実朝の首を持ち後見である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の宅に向かい、そこで食事をするときも首を手放さなかったと言う。使者として弥源太兵衛尉(公卿の乳母子)を三浦義村に遣わされ「今、将軍はいなくなった。私こそが関東の寵にふさわしい。速やかに計らうように。」と伝えた。義村は『吾妻鏡』では「先君の恩を忘れていなかったので幾筋もの涙を流し、まったく何も言う事が出来ず、しばらくして「まずは拙宅にお越しください。ひとまずお迎えの兵士を出しましょう」と申した。その後義村は北条義時に使者を出しこの事を告げた。義時は躊躇せず公卿を誅殺せよと命じた。義村は一族らを呼び集め公暁が武勇に優れているため、簡単には討ち取れないとし、勇散な長尾定景他五名を討手に差し向けた。公暁は義村の使者が遅いため雪の中一人で鶴岡宮の後方の山を登り義村宅に向かうが途中定景と遭遇し討ち手を戦うが貞蔭に討ち取られた。公暁享年二十歳。また、義村邸の塀までたどり着き、乗り越えようとした所で討ち取られたとも言われている。実朝の首は『吾妻鏡』は見つからず、実朝の御鬢(びん)を棺の中に納められたと記されている。『愚管抄』では岡山の雪の中から実朝の首が発見されたと記されている。この実朝暗殺は、鎌倉中に衝撃を走らせた。和田合戦で、将軍という権力の重みを知った御家人たち武士は、その後の空位となる将軍不在は、不安を呼び起こし、再び秩序が乱れる事を恐れた。 そして、実朝の死は、源頼朝以来、幕府将軍を担って来た河内源氏棟梁の血筋をここで幕を下ろした。 ―続く
(写真:鎌倉 寿福寺 北条実朝の墓標、北条政子の墓標)