今年九月一日に「鎌倉期における文化一、貨幣経済の進展による文化形成」と題して配信させていただいた。そして、貨幣経済とは関係が薄い仏教文化として鎌倉新仏教について語らせていただき、鎌倉期の仏像文化として仏師集団「慶派」を続けた。これらの仏師集団は、仏像の造仏でどのように報酬が決められ、どのように賃金に充てられたかは、私自身調べ切れていない。三代執権北条泰時の時代には宋銭の流通が始められた、それまでに代替え流通貨幣として、米、布、鉄、または、依頼物が高額になると砂金も当てられたようである。それらを仏師や番匠(大工)の棟梁が技術者に賃金として米何俵、絹何疋、布何端、糸何絇と分けられたと考えられる。
(写真:鎌倉建長寺三解脱門)
日本において貨幣は皇朝十二銭が奈良時代に発行されたが、年々銅の含有率も低くなり信用度が低下、流通において普及せず、鋳造を中止した。その後の古代から中世にかけて物々交換が主流で、九世紀後半『延喜式』の禄物価法で米、に相当する絹、布、糸鉄当七品目の公定価格を定めたという。国ごとに換算価格の規定を設けた。例えば、畿内の例では、稲1束=絁1/30疋=糸1/6絇=綿1/3屯=布1/15端=鍬1/3口=鉄1/5廷という換算が成立していた(山下信一郎著『古代日本国家と給与制」吉川弘文館』)。 平安末期に描かれた信貴山縁起絵巻に尼君が米俵を抱え旅している様子が描かれている。馬子と従者は米俵一俵ずつ担いでおり、旅の食糧と諸費用を支払うためのものである。朝廷が估価法(こかほう)として市場の公定価格及び物品の換算率を定めた法律を施行した。
(写真:宋銭 ウィキペディアより引用)
平清盛により宋貿易により得た宋銭を主材源として国内でも流通させるようにしたが後白河天皇の宋銭の使用の禁止が堤議され、その事により治承三年(1179)の政変の原因の一つとなったとされる。国衙に納める徴税としては、この絹、米が主流をなし、その値打ちが価格として連動していた。簡便性に優れた宋銭の普及により絹の値打ちが下がり、それは荘園領主にとっては大きな打撃を生むことになり、それが反対の大きな理由であった。平家滅亡後の文治三年(1187)摂政となった九条兼実が源範頼の意見とし宋銭の流通停止が発令されるが、建久三年(1192)には宋銭の估価を定めた「銭直法」が制定されるも根強い反対意見が出され建久四年(1193)には改めて「宋銭停止令」が出されている。その後も物々交換が主体をなし、東国においては絹、西国において米が貨幣の様に基準とされていた。延喜十四年(914)地方国衙の估価は絹一疋=稲五十束、錦一屯=稲五束とされていた。平清盛により宋貿易により得た宋銭を主材源として国内でも流通させるようにしたが後白河天皇の宋銭の使用の禁止が堤議され、その事により治承三年(1179)の政変の原因の一つとなったとされる。国衙に納める徴税としては、この絹、米が主流をなし、その値打ちが価格として連動していた。簡便性に優れた宋銭の普及により絹の値打ちが下がり、それは荘園領主にとっては大きな打撃を生むことになり、それが反対の大きな理由であった。
(写真:鎌倉円覚寺正続院 舎利殿)
平家滅亡後の文治三年(1187)摂政となった九条兼実が源範頼の意見とし宋銭の流通停止が発令されるが、建久三年(1192)には宋銭の估価を定めた「銭直法」が制定されるも根強い反対意見が出され建久四年(1193)には改めて「宋銭停止令」が出されている。鎌倉時代には、幕府が、これに基づく価格を估価と呼び租税の物納や日本国外との貿易の価格および交換機順として用いられた。しかし、鎌倉期において三代執権北条泰時の時代頃から宋銭の貨幣が流通した経済が進展し、交通路の拡充により新たな文化を形成してゆく。
(写真:埼玉吉身町奈良時代の東山道より引用)
律令制における古代日本国家から広域地方行政区画として畿内七道と呼ばれ、畿内の大和、山城、摂津、河内、和泉の五国と、そして七道として東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道と地理的行政区分が行われていた。これらの行政区画の国の国衙を結ぶ道としても七道の名称が使われ、年貢の運搬と軍事路として用いられている。畿内五国の道は当時から整備されており、京都から西に向かう山陽道、山陰道や畿内を通り紀伊から四国に向く南海道も比較的整備されていた。しかし、東国に向かう東海道、東山道は距離も長く多くの難所を超えていかなければならなかった。東海道は、河の渡しと箱根、東山道は信濃の山道とそれぞれの難所が存在する。鎌倉に幕府が置かれことで、東海道、東山道の整備が進んでゆく。西行法師が東大寺復興のため重源の依頼で奥州の藤原秀衡に勧進を求めた時には、箱根の道は整備されておらず、東海道の足柄方面周りで鎌倉に訪れている。建久二年(1192)、源頼朝においても足柄経由で上洛した。しかし、三代執権北条泰時の時代に東海道の箱根を通る道が出来たとされ、所要日数も減少することになる。『十六夜日記』著者の阿仏尼は五十代半ばに、京都から一人で訴訟のため箱根を超えて鎌倉に訪れた。また、古代から東山道から上野・下野・相模国を結ぶ官道の武蔵路が平安期に入り間道とされたが、鎌倉期に入ると幕府の置かれた鎌倉を結ぶ武蔵路が重要視され、いくつもの鎌倉を通る道が整備されていく。南北朝期には、建武二年十二月二十二日、後醍醐帝の論旨を受けた北畠顕家が奥州から京に向け出立した際、鎌倉の足利の軍勢を撃破し、鎌倉を攻略して翌年の建武三年一月十三、日、近江愛知川に到着した。多賀城から六百キロ以上を二十日で移動した(『太平記』十五巻)。一日平均三十キロを維持する強行軍であり、羽柴秀吉の備中大返しをはるかにしのぐ強行であり、かなりの道路整備が出来ていたと考えられる。
(写真:鎌倉瑞泉寺 一覧邸)
平安、期の貴族文化から鎌倉期の武士文化、そして庶民文化も現れたのが、この鎌倉期であり、宗教、宋文化の移入、思想、武士文化が新たに形成されていく。また、庶民の職能者が集団化し宋銭による貨幣経済の進展により賃金の支払いが簡便化した事と、東西の交通路が整備され東西の移動が簡便になった。そして、新たに彫刻、建築・庭園、絵画、工芸、文学・文芸、芸能・芸術が鎌倉期において創設され室町期に引き継がれ、近世、近代、そして現代においても日本文化として多くを残している。建築・庭園、絵画、工芸、文学・文芸、芸能・芸術などを紹介していきたいと思う。 ―続く