曽我兄弟の仇討後、事件の余波が起きている。御狩の間、常陸国久慈の者たちがお供に祇候していたが、曽我兄弟の夜討ちに際し、その場から恐れ逃亡してしまった。そこで幕府(頼朝)は彼らの所帯(官職や所領等)を没収させている。後に常陸国の御家人住人らの粛清の始まりとも考える。 六月七日には、十日ほどの取り調べを行い頼朝は富士野を立ち鎌倉に向かった。この事件に対し各地で不安が広り、常陸国の多気義幹が八田知家の謀計により所領を没収され、岡部泰綱に預けられる。七月には、先述した曽我祐成の弟で伊東祐清が養子に引き取り、祐清が平氏方に与し北陸合戦で討たれた後、祐清の妻は武蔵守平が義信に嫁いだ。そして弟は養母とともに武蔵に行き律師と号する僧になっている。その僧が鎌倉に呼び出され梟首されると思い甘縄近くで読経をしたのち自害した。
八月には、源範頼、叛意のない旨の起請文を提出させ、頼朝が弟の範頼の源姓を称することを咎める。その後、範頼は伊豆国修善寺に幽閉された。この事件は、曽我兄弟の仇討後の最大の余波であったと考えられる。曽我兄弟の仇討後、すぐに鎌倉に頼朝が打たれたと言う誤報が届いた。急な知らせに政子は驚き嘆く。その際に範頼は政子に「後にはそれがしが控えております」と述べた。この発言を知り頼朝は範頼に謀反の疑いをかけた。しかしこのことは『吾妻鏡』にも記載されておらず、『保暦間記』にのみ記されている。『吾妻鏡』では、八月二日条、「参河守(源)範頼が起請文を書き、将軍(源頼朝)に献上された。」と記され、起請文の内容が書き留められているが、謀反の内容に関しては記載がない。しかしその起請文の文末に自らの名を「参河守源範頼」記載している。この源姓を名乗ったことに頼朝が過分として責め、許しを与えなかった。範頼は、その知らせを聞き狼狽する。この事件は、曽我兄弟の仇討後、二か月ほどが経過しており、政子の虚言、また陰謀とする説がある。仇討事件後、範頼の陰謀を唱え不安定になった世上の中、将軍としての権力の集約を行ったと考えるべきであり、粛清とも考えられる。
範頼陰謀を決定付けたのは、『吾妻鏡』八月十日条に範頼家人・当麻太郎が頼朝の寝所の下に潜み、その気配を察知され結城朝光、宇佐美祐茂、梶原影季に捕らえられたことが記されている。当麻は尋問に対し「範頼が起請文を提出された後、全く重ねての仰せがなく、どうなっているか困惑しております。将軍の内々の恩考えを知って安否を思い定めたいと、参河守はたいそう悲観にくれておられるので、もしや何かのついでにこの事を仰せ出されるかどうか、状況を窺うために参りました。全くの陰謀の企てではありません」。と答えた。当麻は範頼が特に頼りにしている勇士であり、弓や剣の武芸には名声を得ていたものである。
八月十七日条、参河守範頼朝臣が伊豆に下向された。狩野介宗茂・宇佐美祐茂が身柄を預かり守護した。帰参の時期は定められず、全く配流のようである。当麻太郎は薩摩国に遣わされ。すぐに処刑すべきところ、折説姫君(大姫)が御病気なので、その刑を軽くされたという。これは陰謀の企てが頼朝の耳に達し範頼からの起請文を提出されたけれども、当麻の所業は許しがたいとしてこのようになったという。『吾妻鏡』では範頼のその後についての記載はなく不明である。しかし『保暦間記』『北条九代記』には誅殺されたというが誅殺を裏付ける資料もなく、子孫が御家人として残っており、誅殺は定かではない。同十八日条、範頼の家人の橘左衛門慰、江滝口、梓刑部丞らが、鏃(やじり)を研いで浜の宿館に籠っていると頼朝の耳に達したので、結城朝光、梶原景時親子新田忠常らを使わし、橘らはすぐに解散したという。そして、二十日条にて故曽我十郎祐成の同腹の兄弟である原小次郎は処刑された。範頼の縁座という。原小次郎は河津祐泰の男とされるが母は狩野重光の孫横山時重の娘とされ『吾妻鏡』や『曽我物語』では京の小次郎とされている。そして延座とは犯罪人の親類縁者にまでその責任を追及する刑罰で、範頼の謀反に加担したように記されている。『曽我物語』では曽我兄弟の祐成、時致に仇討の話を持ち掛けられるが断り、頼朝の一門の相模守・大内惟義の侍の由比三郎の謀反を阻止しようとして由比ガ浜で傷を負い五日後にその傷がもとで亡くなり、同じことなら去る五月に、兄弟たちと一緒に死んだ方がどれほどよかったかと言い残したと記されている。これらの記述に対しては不明点が多く残されているが、これで、曽我兄弟に関する記述は終わる。
範頼の伊豆下向の一週間後、二十四日には相模国の頼朝挙兵時からの有力御家人の大庭景義、岡崎四郎義実の二人が突然出家をしている。大庭景義の所領は懐島郷(神奈川県茅ケ崎市)であり、頼朝の挙兵時に平家方に与し石橋山の合戦で追い詰めた大庭義親の兄である。保元の乱で義朝に従軍したが敵方の源為朝の矢にあたり、負傷したために家督を弟の景親に譲った。頼朝挙兵時には弟の義親と袂を分け、頼朝に与する。鶴岡八幡宮造営の奉行に任じられ、その造営費は義景が負担したとされる。景親が富士川の戦いで頼朝に捕らわれ際に頼朝に助命嘆願の打診があったが、これを断った。藤原秀衡を征伐する際、朝廷の院宣が得られず苦慮していた際に義景が奥州藤原氏は源氏の家人であるため、誅罰には勅許が必要無い事を助言し、頼朝は奥州討伐に出た。この出家に対しての記述は『吾妻鏡』にもあるが、何らかの理由で追放になっている。建久六年二月九日条に大庭平太景能入道(景義)が申文を捧げたとある。「義兵を上げた最初から大功を尽くしてきたところ、疑いを受け鎌倉中から追放された後、悲しみと憂えを抱いたままですでに三年になります。今や余命はなく 後年のことは望みがたいので早くお許しにあずかり、この度の御上洛の供奉の人数に加わり、老後の誉れとしたいと思います。」と記されていた。そこで許されたが、そればかりか供奉するようにと言う仰せも預かったという。岡崎義実の所領は相模国大隅郡岡崎(神奈川県平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)を領し、三浦義澄の叔父にあたり、老衰を理由に七十三歳で出家し、八十九歳で死去する。
何故この二人が突然出家したのか、そして大庭景義の追放の理由はなんであったのか定かではないが、この二人の領地が頼朝のいる鎌倉と繁栄する北条時政の伊豆国の中央にあたり、衰退していく中の大庭景義・岡崎義実が範頼の謀反に関与していたのではないかとする説がある。また、この時期から多くの粛清が始まっており十一月には安田義貞が御所の女房に艶書(こいぶみ)を送り、梟首され父義貞も延座を受けている。また常陸国住人・下妻市党弘幹が北条時政に宿意を抱いているとし梟首されている。この時期は幕府の初期政治体制が終わり、源頼朝と北条時政により頼朝の後継者を形成する中期に入ろうとしていた。御家人達もの不平不満が出てきた時でもあり、曽我兄弟の仇討後、頼朝と時政の意志に合わない御家人は粛清されていったと考える。そして、この曽我兄弟の仇討は、その後の武士の見本ともなり、江戸時代は討たれた側の家の恥として仇討を成就しなければ家は取り壊しとなった。しかし、仇討を為政者は如何に裁くことが出来るかが、その時の執政に大きな影響を与得ることは間違いない。頼朝は曽我兄弟の仇討を利用しながら、その終焉を粛清と弟範頼の幽閉にすり替え将軍家の安泰と嫡子頼家の後継を認めさせた政治家であった。 ―続く