『吾妻鏡』は鎌倉時代の末期に編纂された歴史書で、幕府側に配慮されながら編纂された気配があるが、鎌倉時代の歴史研究には基本的に用いられる史書である。しかし『曽我物語』は承伝により語られた事件を編纂し、作者(作者不明であるが)の意図とする物語に構成されたものである。事件そのものは『吾妻鏡』にも記述されているため史実である。しかし、曽我兄弟の仇討に関し『吾妻鏡』と『曽我物語』の相違点が各所に出てくるため、この事件の本質を見失うこともあるので注意したい。
『吾妻鏡』では建久四年(1193)五月二十八日の仇討の当日「子の刻に伊藤次郎祐親法師の孫曽我十郎祐成・同五郎時致が富士野の神野の御旅館におしかけ。工藤左衛門慰祐経を殺害した。」から始まり、事件の内容、事件の動機、捕らえられた弟時致の審議と処罰、関係各者の取り調べ等を簡潔明瞭に記載されている。しかし、曽我兄弟の生い立ちや、境遇について、また仇討後の関係者のその後は語られていない。
『曽我物語』では先述した通り、十巻から構成され第一巻は日本国の始まりから説き起こし、源平両氏の盛衰、源頼朝の幕府草創が記されている。そして兄弟の生涯を叙述的に記されていく。「伊豆国住人伊藤次郎助親が孫子、曽我十郎助成(祐成)・同五郎時宗(時致)兄弟二人ばかりこそ、将軍家陣内に憚(はばか)らず、親の敵を討て、芸を当庭に施し名を後代に留めけれ。その敵人は即ち一家の輩、宮藤左衛門慰祐経(工藤祐経)」から始められている。(両書には名前の字が違う点があげられ)。そして八幡三郎の放った矢により安元二年十月、河津三郎を射て命を落とす」。各巻、本文とは別立ての小文を乗せ「続き物」の形式をとるため、二巻冒頭に「安元弐年 丙申、神無月十日余りの異なるに河津三郎助通、生年三十一にて八幡三郎が手に懸かり、…」を記述して各巻を結び付けている。また時間的な叙述を置くことで内容の史実性を強調した。
『曽我物語』では登場人物の名が変わっていることである。漢字の読みを同じとする字を宛がう事はよくあるが、全く違う名前が出てくることは改名した時くらいで、何らかの説明があることが多い。特に伊藤祐親( 『曽我物語』では伊東ではなく伊藤が記されている)の次男祐清はこの物語の大きなカギを担っていると考える。『吾妻鏡』では、祐清の妻が比企尼の三女であったことから父・祐親の頼朝殺害の企てを頼朝に告げ逃がしている。また、『曽我物語』では河津三郎助通と明記され、『吾妻鏡』では治承四年十月十九日条に祐泰と記載。寿永元年二月十五日条には伊藤九朗、祐親の子。建久四年六月一日条には伊東九朗祐清と明記されている。
(ウィキペディアより引用)
『曽我物語』で伊藤祐親の嫡子・河津三郎助通(祐泰)が、わずが亡くなった五日目に妻・萬江御前がもう一人の男の子を生むが、生きる気力をなくしたものに育てることができず河津の弟・伊藤九朗祐長(祐清)のもとへ養子に出したことが記されている。両書の祐清の名前に対し不明瞭さは同じであるが、何故このように記載されたかは定かではない。また、父・祐親が自害後、頼朝は祐清に話、祐清は「父はすでに亡く、後の栄誉は無意味に等しきものです。早くお暇をいただきたい。」と申した。そこで頼朝は必ずも誅殺された(父の自害を聞き頼朝に誅殺されることを願ったと考えられるが不明点が多く、不可解である )。世間ではこれを美談としない人はいなかった。頼朝が伊豆にいらしゃった時、去る安元元年九月の頃、祐親法師は頼朝を殺そうとした。祐清はこのことを聞き、密かに告げてきたので頼朝は走湯山へお逃げになった。その功を忘れずにおられたが(祐清は孝行の志が厚く)こうしたことになったという。『吾妻鏡』建久四年六月十一日条では、祐清が平氏に加わり、北陸道合戦の時に討ち取られたと記されている。その後、祐清の妻は武蔵守(平賀)義信に嫁いだ。かの僧も(養子に迎えた河津祐泰の三男)同じく(祐清の妻に)従って行き武蔵国府にいる。本来なら祐清の妻は身分的にも年齢的にも武蔵守(平賀)義信に嫁ぐことはあり得ないが、比企尼の三女ということで、頼朝の計らいがあったかもしれない。この『曽我物語』で祐清の動きが気になる。また、『曽我物語』では、伊東祐親が悪人として用いられている傾向がある。祐親の自害に対しての補足説明がなく、頼朝の初子を殺害し、頼朝を殺す企ても図り、頼朝挙兵後は平家方の大庭氏と共に敵対して石橋山の合戦で追い詰めた。しかし富士川の合戦で敗れその後捕らわれの身になる。本来、審議の後、罪名がつけられ即刻斬首されてもおかしくない。共に石橋山で頼朝を追い詰めた大庭景親は投降後三日で梟首された。
『吾妻鏡』では、補足説明のように三浦義澄の妻が祐親の娘であり、祐親が捕らわれ後に頼朝に願い出て罪名がつくまで義澄の預かりとなったことを記している。寿永元年(1182)二月十四日、御台所(政子)がご懐妊という噂があったので、義澄は機会を得て、何度もご機嫌をうかがったところ、頼朝が御前に召して直接に恩赦すると仰った。祐親は自身の罪を悔い自害してしまった。治承四年(1180)十月十九日に捕らわれてから寿永元年(1182)二月十四日に自害するまで、ほぼ一年四か月、頼朝の右腕でもあり、臣下の中で最も信頼があり最大御家人である忠臣の三浦義澄の願いでも、この長い期間の預け入れには疑問が残る。そして、この条にも頼朝は褒賞を与えようと祐清を呼び出し、祐清は「父はすでに御怨敵として囚人となっています。その子である私がどうして恩賞を受けることができましょうか。速やかに暇を賜りたく存じます。」と申し、平氏の味方するために上洛したいという。世の人々はこの話を美談と評した。と記されている。
継父の曽我祐信に対して『曽我物語』では、ほとんど人柄等の記載はない。『吾妻鏡』において祐信の記事が十六例見いだせる(坂井孝一著『曽我物語の史実と虚構』:以下引用)。祐信はれっきとした御家人であった。治承四年、石橋山の合戦では大庭型の平家軍に加わり、十月十八日条では、大場景近に与し源家を射奉り、後悔し、魂を銷(け)した祐信は「萩野五郎」等とともに恭順の意を示しつつ頼朝軍に投降した。そして、十一月十七日に「厚免」を蒙り救われている。その後、元暦元年(1184)二月五日条、源範頼の配下として一の谷の合戦に赴き。また範頼の九州遠征に赴いたとされる。『曽我物語』において河津三郎祐奉が亡くなった安元二年(1176)で、一萬が五歳、筥王丸が三歳であり、一萬が元服したのが十三歳で元暦元年(1184)とされる。しかし、この年には継父祐信は一の谷にも合戦に赴いている。祐信が継父であるが、中世の武士の家系では父と子の関係は主従関係と同等なことで、継父がいない中で元服が行われるということは考えられない。元歴二年三月に平家が滅亡し、祐信が戻ったこの年以降に元服が行われたと考えるべきである。『曽我物語』は唱導を目的とした説話の中には「三」「七」「九」といった仏教の教えに関係する奇数表現が繰り返し用いられている。また、筥王丸の箱根入山は十一歳で元歴二年霜月(十一月)中半の頃と記載されているが、これも同様祐長が合戦に赴いていたため元歴二年十一月筥王十二歳の時と考えるべきである。
これらをもとに総合的に判断すると、やはり真名本『曽我物語』には作者の意図とするために虚構が多く用いている。また『吾妻鏡』には類似する点や補足する点なども見え『吾妻鏡』が編纂される前に、原書と思われる『曽我物語』があったのではないかと考えられる。 ―続く