鎌倉散策 願わくは花の下にて、十三 西行「望月のころ」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 保永六年(1140)十月、佐藤義清は二十三歳で出家して西行法師と号し(『百鍊抄』第六)、京都の嵯峨野で仏道の修業を行う。永治元年(1141)草庵を結び、三年後の天養元年(1144)の頃、二十七歳で一度目の奥州陸奥国の行脚の旅に出る。京に戻り、久安四年(1148)には高野山で草案を結んでいる。保元元年(1156)、西行三十九歳の時に保元の乱が起こった。戦いに敗れた崇徳院が剃髪した仁和寺を訪ねている。その後も、讃岐に流された崇徳院に慰めの和歌を送った。

一二三四 その日より 落つる涙を 形見にて 思ひ忘るる時の間もなし

西行は崇徳院が讃岐に移された日崇徳院の形見を見て涙して思い忘れることはほんのわずかなときもなかった。返しとして院の歌を取り継いだ女房が

一二三五 目の前に変わりはてにし世の憂さに 涙をきみも名が敷けるかな と返した。

 

 長寛二年(1164)八月二十五日、西行四十七歳、そして崇徳院は四十六歳で讃岐にて崩御する。その三年後仁安二年(1167)十月から西行四国に渡り、崇徳院の讃岐白峯御陵に参り、空海の誕生地の善通寺、そして九州に行脚の旅を続けた。安元元年(1175)に法然が浄土宗を開いている。西行は行脚の旅から戻り、その後、再び高野山で過ごした。治承四年(1180)に以仁王の宣旨により治承・寿永の乱が始まった。この時、西行は伊勢の二見浦に草庵を結ぶ。文治元年、壇ノ浦で平家が滅び、源頼朝による武士の政権が始まる直前であった。そして文治二年(1186)、東大寺料勧進のため、再び奥州陸奥国に旅立ち、鎌倉で西行は頼朝 に会っている。六十九歳の西行にとって最後の行脚であったと考える。文治三年に京都に戻った西行は、すでに七十歳になり京都嵯峨野で草庵を結び『御裳濯川歌合』(藤原俊成判)が成立した。翌年『千載集』に十八首入集している。そして文治五年(1189)河内国弘川寺に草案を結び『宮河歌合』定家判を成しえた。定家は、この判に西行の心に重きを置き作成まで、ほぼ三年の月日を費やしている。西行からのたびたび催促の歌が贈られたといわれ、これは西行の後人に定家を求めていたのではないかと考える。文治五年に河内国弘川寺に草庵を結び、その翌年、文治六年(1190)二月十六日、弘川寺にて七十三歳で寂す。仏道と歌に生きた西行であった。

 

 願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ ― 私の望みは咲ほこる桜の下で春に死ぬこと、二月、釈迦の亡くなった望月のころ

 

 西行は桜を好み、桜の歌を多く詠んでいる。この歌は、あまりにも有名であるが、この歌は死の直前に読まれたものではなく『御裳濯川歌合』にも含まれており、それ以前に詠まれたた歌である。西行の本当の願いであっただろ。釈迦が入滅したのが二月十五日で蓮の咲くころだったという。西行は蓮の花を桜の花に詠み変えている。そして西行が釈迦の入滅した次の日の十六日に寂した。西行の入滅を知った都の人々はこの歌を思い出し、惜しみつつ、あはれのありがたさを覚えたという。   藤原の俊成が「願はくは」の歌に触れ次の歌を詠んでいる。

願い置きし 花の下にて 終わりけり 蓮(はちす)の上も たがはざるらむ ― かねて願っていた桜の花の下で亡くなられた。蓮の上でなくなったのと違いはないだろう。

 

  

 桑子敏夫氏の『西行の風景』で「願はくはの歌を見れば、西行の望みは、その歌のとおりに理解できるような気がする。桜の下で釈迦が入滅した日と同じ日に死にたいというだけのように見える。桜の好きな西行が、仏の道の完成を釈迦とともにありたいというのはごく自然なことに感じられるからである。しかし、重要なのは、そうすることが西行の個人的な願望だったのではないということである。もしそうなら、この歌は、単なる桜への執着の歌になってしまうだろう。この歌が西行という歌人にとってもつ意味は、この歌の通りに死を迎えることが、彼の思想の完成であったからである。「思想の完成」ということがこの歌にとって重要なのであって、花に生きた歌人の人生の終焉を飾るだけのものではない。釈迦入寂の日に、日本の桜の下で死ぬ。それはこの国で生き、仏の教えに生きたものの、その思想を完成することであった。つまり、日本という国の文化と仏教という普遍的な宗教との統合という彼の思想的課題を完成することであった。」と述べられている。私も同感である。

 

 大阪出身の私は、三度ほど桜の咲く季節に吉野を訪ねた。いつも奥千本の桜が見事に咲く中で西行庵を訪ね、初めて訪れた時に、この小さな庵に驚いた。そして、いつも訪れるたび、この小さな庵で西行は何を考えたのだろうと感じていた。日本人にとって桜は文化であり、それらの日本の文化と普遍的な宗教との統合という彼の思想的課題の完成形だった事に納得したのである。

「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」 ―完